OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

2015-08-01から1ヶ月間の記事一覧

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第四章 FROM THE BEYOND〈彼方〉から / ③

新しいものの探求は 普通の探求ではありえない それは 新しいもの を求める探求だからだあなたに どうやって それを探求できよう?あなたは それを知らない あなたは まだ一度も それに会ったことがない 新しいものの探求は ただ無制限な探求になる人は知ら…

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第四章 FROM THE BEYOND〈彼方〉から / ②

私たちは どうすれば新しくなれるのだろう?ひとりでに 新しくはならない新しさは〈彼方〉から来る、神からと言ってもいい 新しさは〈存在 (イグジステンス)〉から来る マインドは つねに古い マインドは けっして新しくなれない それは過去の集積だ 新しさ…

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第四章 FROM THE BEYOND〈彼方〉から / ①

最初の質問 「何がまちがってしまったのでしょう? 人々が、大きな喜びよりもむしろ恐怖をいだいて、いやいやながらあらゆる新しいものに出会うのはなぜでしょう?」 新しいものは あ な た からは 生まれない それは 彼 方 な る も の から来る それは あ…

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」Q&A (P.134)

「知識は つねに危険でしょうか?」 かならずしも つねにではないそして知識が 危険なのではなく、知ったかぶりが 危険なのだ事実について知るのは まったくいいことだが、生の神秘を忘れるのは危険だだから知識は かならずしも危険ではないときには、それは…

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」解き放たれた愛 ②

(…①の 続き・・・) 女性に恋をしたら、あなたは ただちに彼女をあるべき姿に改良しはじめる そして その女性も、もちろん、たいへんな改良主義者だ もし女性の愛の犠牲になったら、そのときには あなたはもうなくなるそのときには、彼女は あなたを改良しすぎる…

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第二章 解き放たれた愛 ①

第四の質問 「すべては、この世界はオーケイなのですか? そして、それと愛とどんな関係があるのですか? あなたが『世界はオーケイだ』と言うとき、それは私にとってもオーケイに聞こえます。 誰かほかの人がそう言ったり、私がそう言ったりすると、それは…

「瞑想 - 祝祭の芸術-⑤」Meditation: The Art of Celebration

…… (…「家が火事だ!」) これなら あなたにも その意味がとれる。 これなら あなたも理解できる。 私は どんな説明も する必要はない。 ただ走るだけだ。 と、 あなたは ついてくる。 家は 火事などではなかった。しかし いったん外に出たら、なぜ私が嘘をつ…

「瞑想 - 祝祭の芸術-④」Meditation: The Art of Celebration

そういうわけで、私は 活発な動きのある方法の数々を使う。 その方法が激しく 活動的であればあるほど、あなたの計算高い心(マインド)は 少しずつ必要でなくなっていく。 その方法が激しく 活動的になればなるほど、それは よりトータルなものになる。という…

「瞑想 - 祝祭の芸術-③」Meditation: The Art of Celebration

社会的な要請と実存的な要請------この二つの要請が満たされなければならない。私は何も、「子供たちを条件づけするな」とは言わない。 仮に子供たちを まったく条件づけないまま放っておいたら、野蛮になってしまうだろうからね。そうなったら、子供たちは生…

「瞑想 - 祝祭の芸術-②」Meditation: The Art of Celebration

私たちは あまりに条件づけられ、習慣が あまりに機械的になってしまっているので、やらなければならないビジネスなど 何もないときでさえ、心(マインド)は 実務的という次第だ。狭める必要のないときまで あなたの心(マインド)は 狭められている。 遊んでい…

「瞑想 - 祝祭の芸術-①」Meditation: The Art of Celebration

私たちは、子供を 心 (マインド)の焦点を定めるように、つまり集中するように躾る。 なぜなら、集中しなければ 子供は人生に うまく対処してゆけないからだ。 生は それを要求する。 心(マインド)は 集中できるようにならなければならない。ところが、集中で…

「第四章_Q & A / 02

質問------ 「しかし、瞑想とはアカルマ (無為)のことではないのでしょうか?」 ダイナミック瞑想の第四段階は ただのアカルマ(無為、非活動) だ。 が、はじめの三段階は 活動的だ。 第一、第二、第三段階は 強烈な活動なのだ。 まず第一段階では、あなたの生…

「第四章 / 静かに黙する瞑想」Q & A 01の ③

蓮華の上に坐っている仏像を見たことがあるだろう。 その蓮は ただの象徴だ。 仏陀の内面に起こっていることを 象徴しているにすぎない。 内面から「ただ坐ること」が 起こるときは、さながら 一輪の花が開いているように感じられる。外側からは 何も抑えつ…

「第四章 / 静かに黙する瞑想」Q & A 01の ②

あなたは 怒りや セックスや 暴力や欲望、そういうものを すべてためこんできた。 いまやこの蓄積こそ あなたのなかの狂気だ。それは そこに、あなたの内部にある。 もし何か 抑圧的な瞑想(たとえば、ただ坐ること) から始めるとしたら、あなたは こういうも…

「第四章 / 静かに黙する瞑想」Q & A 01の ①

(瞑想:祝祭の芸術より引用) 質問------ 「ダイナミック瞑想は非常に活動的で、奮闘を要します。 ただ静かに黙して坐るだけでは 瞑想に入ってゆけないのでしょうか?」 ただ坐るだけでも 瞑想に入ることは できる。 ただしそのときは ただ 坐っているがいい。…

…OSHO : ダイナミック・メディテーション とは・・・

https://youtu.be/sbfVcigkNao…動画、⬆(日本語字幕あり) OSHO Dynamic Meditation - a revolution in consciousness 24:29 https://youtu.be/bRXcbXnLwvM …⬆この動画は、日本語字幕なし・・・英語のみ 05:00 ☆☆☆☆☆☆☆ OSHO:The Need for Dynamic Meditation https…

第二章 / 行為を通しての無為 Non-Doing Through Doing (05)

そういうわけで私は断食の話をもちだすのだ。 それは行為だ。 実に深いところでの行為だ。 食べることは 食べないことに較べたら、さほど大きな能動性 (活動) ではない。 あなたは食べる。 そうすると 食物のことなど忘れてしまう。だからそれは たいした能…

第二章 / 行為を通しての無為 Non-Doing Through Doing (04)

相反する伝統が二派ある。 すなわち、ヨーガとサーンキヤだ。ヨーガは努力せずしては 何ごとも達成されないと言う。 ヨーガのすべて、パタンジャリのヨーガ (ラージャ・ヨーガ)のすべては 努力以外の何ものでもない。 そして これがずっと主流派だった。 とい…

第二章 / 行為を通しての無為 Non-Doing Through Doing (03)

生は ひとつの弁証法的な課程(プロセス)------。 生の逆は 死だ。 それは活用されるべきもの。 ただそれを 落とすことはできない。 それを活用してごらん。 そうすれば その逆のなかに投げ込まれるだろう。醒めていてごらん。 その波の まにまに漂っていると…

第二章 / 行為を通しての無為 Non-Doing Through Doing (02)

意識は 受動的だ------瞑想は受動的であって当然だ。 なぜなら、それは意識への扉、完全なる意識への扉だから------。 能動的 (活動的) な瞑想を云々するような人たちは まちがっている。 瞑想とは受動性なのだ。 あなたが瞑想に達するには、ある能動性、あ…

第二章 / 行為を通しての無為 Non-Doing Through Doing (01)

瞑想は 常に 受動的だ。 その本質そのものが 受動的なのだ。瞑想は その本性そのものが無為だから、能動的ではありえない。 何か を 行なおうものなら、まさに その行為が ことの全体をかき乱す。 あなたの行為そのもの、能動性 (活動) そのものが ことをか…

「瞑想 (祝祭の芸術)」BHAGWAN SHREE RAJNEESH MEDITATION The Art of Ecstasy

(第1部 瞑想の力学より 引用) 第一章/ヨーガ------意識の成長 Yoga:The Growth of Consciousness 生の目的は 意識的になることだ。 それは単に ヨーガの目的であるばかりではない。 生の進化それ自体が、ますます意識的になるということだ。 しかし ヨーガ…

…「Lady Gaga」

「Lady Gaga : I Love Reading Osho」 …(動画より・・・) 「・・・平等は 私の人生の中でも 最も大切なことのひとつです」https://youtu.be/nl0LLYylj4w

第十七章「七つの身体におけるプラーナの顕現」⑦

第七番目の身体においては、ものごとは なおいっそうむつかしくなる。仏陀は第七身体を ニルヴァーナ・カーヤ(涅槃の身体) と呼んだ。 真理、絶対なるものは 第七身体の なかにあるからだ。 第七番目の身体こそ 最後の身体だ。 ゆえに、そこにあるのは 創造と…

第十七章「七つの身体におけるプラーナの顕現」⑥

私たちは 第六身体においてさえ執着するようになる (「人類は死滅してはならない!」) 。 が、生 ま れ た ものは すべて死ななければならない。 人類でさえ 死ななければならない。 水爆が人類を 滅ぼすためにつくられる。 私たちは 水爆をつくるが早いか、…

第十七章「七つの身体におけるプラーナの顕現」⑤

第六番目の身体にくると、こと は さらにむつかしくなる。 なぜなら、第六身体は もはや生命でさえないからだ。第六身体に 対しては------何と言えばいいのだろう ?第五身体を過ぎると、われ が落ちる。 自我(エゴ)が 落ちる。 そのときには どんな自我(エ…

第十七章「七つの身体におけるプラーナの顕現」④

第五番目の身体では------どう表現したらいいだろう ?ちょうど 低次の身体の住む大気圏(アトモスフィア)が 想念や息や磁力や愛憎であったりしたのと同じように、第五身体の住む大気圏は 生命だ。 第五身体にとっては、生命それ自体が大気圏だ。 だから、第…

第十七章「七つの身体におけるプラーナの顕現」③

次に 第四番目の身体、メンタル体(精神体) がある。ここでは 想念が入ってきて、想念が出てゆく。 が、この「入ってくる想念」と「出てゆく想念」にも 相似・対応するものがある。息を吸っているあいだに 想念が浮かんだら、その瞬間 はじめて独創的な考えが…

第十七章「七つの身体におけるプラーナの顕現」②

(---アナパーナ・サティ・ヨーガではほかの六つの身体については説かれていない。なぜなら、その六つの身体はやがてひとりでに現れてくるからだ---①より…) この肉体の両極性(同時的に死ぬことと生きること、同時に起こる誕生と死) に精通すれ ば す る ほ ど、ま…

第十七章「七つの身体におけるプラーナの顕現」①

The Manifestations of Prana in the Seven Bodies質問 「プラーナとは何ですか? そしてそのプラーナは七つの身体においておのおのどのように顕われるのですか?」 プラーナとは エネルギーのこと、私たちの なかにある生命エネルギー、生命のことだ。 この…