OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

「ボーディサットヴァフッド」Q & A (03)

 
ボーディサットヴァは
あまりにも多くを持つがゆえに
それを与える必要のある者だ

あまりに多くを持つがゆえに
あなたが彼の その愛、彼の その存在、彼の その〈光明〉を受けとると 感謝する者だ

彼は 芳香に満ちた花に 似ている
その芳香は 風に解き放たれたい

あるいは、彼は 雨水で一杯の雲のようなもの・・・・・・
それを歓迎し、それを吸収してくれる 渇いた大地を求めている

ボーディサットヴァもそうだ
雨水で一杯の雲・・・・・・
渇いた魂を求め、歓んで迎えてくれる誰かを求めて、四方八方へ動いている

ボーディサットヴァは あなたが彼の贈り物を受けとるとき あなたに感謝する


ボーディサットヴァフッド(菩薩の境地)は 意識のひとつの状態だ
それは たしかに「ナンセンス」だ
それは たしかに も の ではない、ソメンドラ

だが、それは起こる
それは 非常に 非論理的だ
それは 非論理的で、ばかげてみえる
それは まだあなたの体験に 関係ないからだ

しかし まもなく、あなた方の多くが その境地に入る
あなた方の多くが まさにその瀬戸際に立っているのが、私には見える
あなた方には 見えない

あなた方が瀬戸際にいて、究極の飛躍をする用意があるのが、私には見える

それが 起こったとき、あなた方は 仏陀の語っていることが何かを知る


『ダイヤモンド・スートラ』は ふつうの人に 説かれているのではない
それは サニヤシンたちにだけ説かれている
ボーディサットヴァフッドに 達しつつある者や すでに達した者たちにだけ説かれている

実際のところ
それは人が ボーディサットヴァフッドに達する前に 説かれなければならない

なぜなら そのボーディサットヴァフッドの瞬間が きたとき
もし 何をしたらいいのか わからなかったら
もし 重荷を降ろす すべがあることに 気づいていなかったら

自分の至福を 放つことができることに
それをかかえている必要はないことに 気づいていなかったら
もし それについて 何も知らなかったら

それは あなたにとって困難に、とても困難になる

あなたの 至福そのものが 胸(ハート)の苦しみに変わり、胸(ハート)の 痛みになる
ダンスや歌になるより むしろそれは 苦痛に満ちたものになる

知っているだろうか
至福があまり強烈になると、それは 苦痛になる
光があまり強烈になると、それはまぶしすぎて、あなたは 盲になりそうになる
愛が過剰であるとき、あなたは それに耐えられない
喜びが過剰であるとき、あなたの 心臓は止まりかねない
それは 大きな苦痛になりかねない


そして あなたは 何も知らない------
ボーディサットヴァフッドが 起こるとき
その喜び、その大きさは あまりにも大きく
その至福、その強烈さは あまりにも大きく
あなたは そのために 死ぬか狂うかしかない


仏教は ボーディサットヴァたちが発狂しないことで知られている 世界で唯一の伝統だ
なぜか?

スーフィ教では 彼らは発狂する
ヒンドウ-教では 彼らは発狂する
彼らの多くが 発狂する
スーフィたちは 彼らのために特別な名前をもっている
マスタス mastas------

しかし 仏陀の伝統のなかには そのようなものはない
なぜか?

仏陀は そのあらゆる可能性をよく知り、きわめて科学的に道を用意している

だから彼は、起こるはずの その瞬間のために、指示、方向づけ、示唆を与えつづける

…04に つづく

(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985) pp.329-332
 
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