OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

第二章 / 行為を通しての無為 Non-Doing Through Doing (02)

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 意識は 受動的だ------瞑想は受動的であって当然だ。
なぜなら、それは意識への扉、完全なる意識への扉だから------。


 能動的 (活動的) な瞑想を云々するような人たちは まちがっている。
瞑想とは受動性なのだ。
あなたが瞑想に達するには、ある能動性、ある行為が必要かもしれない。
それは わかる。が、それは瞑想そのものが 能動的だからではない。
むしろ こういうことだ。
つまり、あなたは 何生にもわたって 非常に能動的でありつづけてきたから------能動性 (活動) が 心(マインド)の一部分にすら なってしまっているから------非能動性 (無活動) に達するためにすら 能動性 (活動) が必要なのだ。


 これまで あまりに 能動性にかかずらってきたから、あなたは あっさり それを落とせない。
クリシュナムルティのような人は「ただ それを落としなさい」と 言いつづけるかもしれない。
だが そうだとしたら 今度は、如 何 に し て それを 落とすのか と尋ねつづける。

クリシュナムルティは こう答えるだろう、「『如何にして』を聞いてはならない。
私は『ただそれを落とせ!』と 言っているのだ。
そのための方法などはない。方法の必要など 何ひとつありはしない。」


 彼は ある意味では正しい。
受動的覚醒や受動的瞑想については「如何にして」などない、ありえない。
というのも、もし「如何にして」が あったら、そのときには 覚醒や瞑想が 受動的ではありえなくなるからだ。
しかしクリシュナムルティも 一方では 間違っている。
彼は聞き手のことを 勘定に入れていない。
彼が話しているのは 自分自身のことだけだ。


 瞑想には どんな「如何にして」もなく、どんな技術もなく、どんな技法もない。
だからクリシュナムルティは まったく正しい。

しかし聞き手のことが 勘定に入っていない。
その聞き手には 能動性しかないのだ。
聞き手にとっては 一切合財が能動的------。

だから、あなたが こう言っても聞き手が理解できないような言葉で しゃべっているだけのこと------。
「瞑想というのは受動的で、不動で、無選択なものだ。
できることといえば ただそのなかに没入することだけ。
どんな努力も いらない。 それは 無為自然なことだ。」


 聞き手は その言葉だけ理解する。
が、それが逆に それ を非常に 難解にしている。
彼は こう答えるだろう、
「知的には完全に理解できます。
あなたの おっしゃることは何であれ 完全に理解できるのです。」

だが、彼は その 意 味 は 理解できない。


 クリシュナムルティの教えには 何も神秘的なところはない。
彼は最も神秘的でない 導師のひとりだ。
何ひとつ 神秘的なものはない!

 あらゆるものが 実に明晰で、正確で、分析されて、論理的で、そして合理的だ。
だから 誰でも わ か る 。

しかし それが最大の 障害のひとつになっている。
聞き手の方は 自分は理解した と 思いこむからだ。

言葉だけでは わかっている。
が、彼は 受動性の言語 を 理解していない。


 彼は 自分に言われたこと、つまり 言葉はわかる。
彼は それ に 耳を傾ける。
彼には それが わかる。
そういう言葉の意味は 知っているのだ。
彼は 連想する。
連想された表象(イメージ)が こぞって 心(マインド)に浮かぶ。

言われたことは わかった。
そこには 知的コミュニケーションがある。
だが、彼は 受動性の言語は 理解できない。
理解することが できないのだ。
彼のいる境地からは 理解しようがない。

彼には ただ行動の言語、能動性の言語しか わからない。


 そこで、私は 能動性について話さなければならない。
そして、非能動性へと飛躍(ジャンプ)できるような地点にまで、能動性を通して あなたを導いてゆかねばならないのだ。

能動性は ある極点、ある限界点にまで 達しなければならない。
その地点とは、あなたが能動的になるのが不可能になるような地点だ (というのも、まだ活動の余地があるなら あなたは活動を続けるだろうからだ) 。


 能動性は 使い尽くされなければならない!
あなたにできることは 何でもするように許されてしかるべきだ。
「もう私には何もできない。 何もかも やってしまった。
もう 何ひとつできない。
どんな努力も 不 可 能 だ。 疲れ 果てた------。」
と、あなた自身が そう叫ぶような そんな地点に追いこまれるまで、やれることは何でも やってしまわねばならない。
そうしたら私は こう言う、「さあ、今度は それを落とすがいい。」


 この「落とすということ」は 伝えられる。
あなたは 瀬戸際にいる。
落とす用意が できている。
いまやあなたは 受動性の言語を 理解できる。

それ以前には理解できなかった。
あなたは 活動過剰 だったのだ。


 あなたは 能動性の 極点にまで行ったことがない。

ものごとを落とすことができるのは 極点 か ら だ け だ。
けっして中間地点からではない。 あなたはそれを落とせない。
セックスは落とせる。
あなたが そのなかに すっかり没入すれば、それは落とせる。
さもなければ 落とすことはできない。

もうそこから先は 進めず、後戻りする どんな理由もないような、そんな限界まで行ってしまったもの------そういったものなら すべて落とせる。

すっかり 知り尽くしたがゆえに それは落とせるのだ。


 あるものを すっかり知ってしまったときには、それは退屈になる。
さらにそれを究めて進みたい と思うかもしれない。
が、もはや それ以上 行くべきところがない としたら、あなたは ただ「ばったり止まる」。もはや 退路はない。
同時に、もっと前進する可能性もない。

あなたは あらゆるものが終わる地点にいる。
そうしたとき、あなたは ただ落ちる。
受動的になりうるのだ。
受動的に なった瞬間、瞑想が 起こる。
瞑想が 花開く。
それは あなたを訪れる。
いわば、受動性のなかへと「昇天する」のだ。


 だから、私にとっては 努力こそ「無努力」に 至る道だ。
行動こそ「無行動」に至る道であり、心(マインド)こそ 瞑想に至る道であり、まさに この物質世界こそ 悟りに至る道なのだ。


…(03)へと 続きます。

(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者) pp.57-61