第二章 / 行為を通しての無為 Non-Doing Through Doing (03)
生は ひとつの弁証法的な課程(プロセス)------。
生の逆は 死だ。
それは活用されるべきもの。
ただそれを 落とすことはできない。
それを活用してごらん。
そうすれば その逆のなかに投げ込まれるだろう。
醒めていてごらん。
その波の まにまに漂っているときは 醒めているがいい。
たやすいことだ。緊張の頂点から くつろぎ、やすらぎの地点に達したときには、醒めていることは とてもたやすい。
造作もないことだ。
そのときには、それは別に むつかしいことではない。
醒めるには ただ受動的であればいいだけ、ただ観照していればいいだけだから------。
そこには 観照する という努力さえあってはならない。
それは いらない。
「ちくしょう! もうたくさんだ!」、能動性を通して あまりに疲れきったので、あなたは そう感じるだろう。
そうした と き、あなた は 存在しない。
存在するのは ただ瞑想ばかり------。
ひとたび それを味わったら、その味は 二度とふたたび忘れられない。
それは、あなたが どこで動こうと、どこへ行こうと、あなたとともに とどまる。
それは あなたとともにある。
そうしたら、それはあなたの能動性 (活動)にも 浸透する。
依然として能動性はあるだろう。
が、同時にそこには------ほかならぬあなたの存在の中心には------受動的な 沈黙がある。
円周の上には全世界、中心には ブラーフマン。
円周には あらゆる能動性、中心には ただ沈黙------。
だがそれは 死んだような沈黙ではない。
そうではなく、まさに 豊かに孕んだ沈黙だ。
なぜなら、この沈黙から あらゆるものが 生まれるのだから------。
能動性でさえ そこから生まれるのだから------。
この沈黙から あらゆるものが創造される。
それは含蓄に富む。
だから私の言う〈沈黙〉は いつでも墓場のような沈黙や 無人屋敷の沈黙のことではない。違う、私の言わんとしているのは、種 の 沈黙のことだ。
母の 子宮の沈黙、地中の 根の沈黙の ことだ。
そこには、やがて顕われるべき潜在能力が たくさん秘められている。
活動はあるだろう。だが、もはや 活 動 す る 人 は いない。
もはや 行為者は いないのだ。
これが 探究だ。
これが 真の求道なのだ。
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(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者) pp.61-62