OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

第二章 / 行為を通しての無為 Non-Doing Through Doing (04)

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 相反する伝統が二派ある。
すなわち、ヨーガとサーンキヤだ。

ヨーガは努力せずしては 何ごとも達成されないと言う。
ヨーガのすべて、パタンジャリのヨーガ (ラージャ・ヨーガ)のすべては 努力以外の何ものでもない。
そして これがずっと主流派だった。
というのも、努力なら 多くの人に理解されるからだ。
能動性ということは理解される。
そこで ヨーガがずっと主流派だった。

しかし、ときとして こんなことを言う奇人もいた、
「為すべきことなど何もない。」


 ナーガルジュナのような人、クリシュナムルティのような人、慧可のような人------、 そういった いく人かの奇人たちだ。
彼らは言う。
「為すべきことなど何もない。
どんなことも してはならない。
方法についてなど 尋ねてはならない。」
これが サーンキヤの伝統だ。


 実際、この世には 宗教はただ二つしかない。
ヨーガとサーンキヤだ。
しかしサーンキヤは ごくたまに小数の人たちの興味しか引かなかった。
だから、あまり多く語られることはない。
クリシュナムルティが 新しく独創的にみえるのは そのためだ。
が、彼はべつに独創的ではない。
サーンキヤが あまり知られていないから そうみえるだけのことだ。


 ヨーガだけが知られている。
世界中にヨーガの修道場(アシュラム)や トレーニング・センターがあり、ヨーガ行者たちがいる。
努力の伝統たるヨーガは知られている。
一方、サーンキヤは 全然知られていない。

クリシュナムルティは 新しい言葉など ただの一言も言ってはいない。
だが、私たちが、サーンキヤの伝統に なじんでいないためにそれは新しくみえる。
私たちの おめでたい無知のおかげで「革命家」が存在している という次第だ。


 サーンキヤ Samkhya というのは〈知〉のこと、知ることだ。
サーンキヤは こう言う、「知ることだけで充分。
覚醒だけでことは足りる。」

しかし、これら二つの伝統は まさに弁証法的なのだ。
私にとって それらは 対立するものではない。

私にとっては それらは弁証法的で、「統合」が可能なものだ。
その「統合」を 私は「努力を通しての 無 努 力」と呼ぶ。
サーンキヤを通してのヨーガ、ヨーガを通してのサーンキヤ、行為を通しての無為だ。

現代では これら二つの対極、弁証法的伝統は それぞれひとつだけでは 役に立たない。
あなたは サーンキヤを達成するためにヨーガを 活用することができる。
そして、サーンキヤを達成するためには ヨーガを 活 用 し な け れ ば な ら な い のだ。


 もしヘーゲル弁証法が理解できたら、あなたにも このことの全体が 明白になるだろう。
弁証法的動きの概念は マルクス以降 誰にも使われていない。
しかも、マルクスは それを実に 非ヘーゲル的な方法で 使っている。

彼はそれを唯物的進化のために、社会のために、そして階級のために 利用した。
社会がいかに階級を通して、階級闘争を通して 進歩発展するかを 示すために------。

で、マルクスは こう述べた、
ヘーゲルは頭で 立っていた。
そして私は ヘーゲルを ふたたび足で立たせたのだ。」


 だが実際は その逆が ほんとうだ。
ヘーゲルは 足で立っていた。
頭で立たせたのは マルクスの方だ。
マルクスのせいで、弁証法という 非常に含蓄の深い概念が 共産主義で汚染されたのだ。
が、この概念自体は 非常に美しく、非常に意味深いもの。
それは深遠なものだ。
ヘーゲルは こう言う、
「観念の発達、意識の発達は弁証法的である。
意識は 弁証法を通して 発達する。」

 私はこう言う。
生命力は みな弁証法にしたがって 発達する、瞑想は最も深い現象であり、その生命力の爆発なのだ------と。
それは核爆発より 深い。
なぜなら、核爆発では 物質の粒子しか爆発しないのに、瞑想では 生きている細胞------生ける実存、生ける存在------が爆発するのだから。


 この爆発は 弁証法を経て 起こる。
だから行動を 活用してごらん。
そして同時に 無行動をも 忘れないこと。

あなたは たくさんやらねばならないことが あるだろう。
だが、この行為はすべて、ただ無為の境地に達するためにあるのだ ということを忘れてはならない。


…(05)へ 続きます・・・

(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者) pp.62-65