OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

第二章 / 行為を通しての無為 Non-Doing Through Doing (05)

f:id:OSHOuraraka0440:20150824231910j:plain
 
 そういうわけで私は断食の話をもちだすのだ。
それは行為だ。
実に深いところでの行為だ。
食べることは 食べないことに較べたら、さほど大きな能動性 (活動) ではない。
あなたは食べる。 そうすると 食物のことなど忘れてしまう。

だからそれは たいした能動性ではない。
だが、もし食べないでいたら それは 大いなる行為だ。
そうしたら あなたは食物を 忘れることはできない。
全身が それを憶えている。
細胞の ひとつひとつが それを要求する。
全身に ひと騒動が起こる。

それは実に 能動的だ。
骨の髄まで 能動的だ。
それは 受動的ではない。


 踊ることは受動的ではない。
それは きわめて能動的だ。
しまいには あなたが 踊りの 動きになる。
体は 忘れ去られる。
ただ 動きだけが残る。
実際、踊りは最も 不思議なもの、摩訶不思議な芸術だ。
なぜなら それは ただ動きのなかの リズムだから。
それは絶対に 物質的なものではない。

だから そ れ を しっかり つかまえることはできない。
踊り手なら つかまえられる。
が、踊りそのものは けっしてつかまえられない。
それはあたかも 宇宙のなかに 消えるように失せてゆく。
それは そこに存在する。
それでいて、それはそこに 存在しないのだ!

それは ここにはない。が、次の瞬間、突然ここにある。
それは 無から 出てきて ここにある。
それは 無から出現して、そして ふたたび 無へと還ってゆく。


 踊り手が ひとり ここに坐っているとしよう。
彼のなかには 踊りなどない。
が、もし詩人が ここに坐っているとしたら 彼のなかには詩情が在りうる。
詩情は 詩人のなかに存在できる。

あるいは 画家が ここにいるとする。
そのときには、実に微妙なかたちで 絵がすでにある。
彼が 絵を描き出す前に 絵がそこにある。

しかし 踊り手の場合には そこに何もない。
もしすでに 在るとしたら、その人は単なる 技巧家(テクニシャン)であって、踊り手ではない。

踊りの動きは 外から踊り手のなかに入ってくる 新たな現象なのだ。
踊り手は ただ 媒体に なる。
動きが 踊り手にとって代わるのだ。


 今世紀最大の 踊り手のひとりは ニジンスキーだった。
が、しまいには 彼は すっかり気が狂ってしまった。
彼は 史上最も偉大な 踊り手であったかもしれない。

そして 彼にとって 動きが強大に なりすぎた ので、彼、踊り手は そのなかに失われてしまった。
晩年の彼は 踊りの動きを コントロールできなくなっていた。
彼は いつでも、どこでも踊りはじめることができた。

そして踊りの最中は それがいつ終わるか 言えるものはひとりもいなかった。
それは ひと晩中 続くかもしれないのだ。

 「君は どうなってるんだ? 踊りはじめると きりがないじゃないか。」
と 友人たちが尋ねたとき、ニジンスキーは こう答えた、
「『私』がいるのは はじめのうちだけだ。
そのうち何かに 乗っ取られる。
そうして、『私』はもういなくなっている。
そうなると 踊っているのは 誰なのか、私にもわからない。」

彼は 気が狂った。
彼は 精神病院行きになった。
そして 精神病院で死んだ------。

何でもいい、活動をやってごらん。
そうして 狂気か瞑想か という極限まで行くがいい。
生ぬるい探究ではことは足りない。



「第二章 行為を通しての無為」終了・・・。

(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.65-67