OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

「第四章 / 静かに黙する瞑想」Q & A 01の ②

 あなたは 怒りや セックスや 暴力や欲望、そういうものを すべてためこんできた。
いまやこの蓄積こそ あなたのなかの狂気だ。

それは そこに、あなたの内部にある。
もし何か 抑圧的な瞑想(たとえば、ただ坐ること) から始めるとしたら、あなたは こういうものすべてを抑圧することになり、それが解放されるのを許さない。


 そこで私は 浄化(カタルシス)から始める。
まず抑圧を すっかり発散させなさい。
怒りをすっかり発散できるときには、あなたは成熟した ということだ。

 もし 私が 独りのときには愛情豊かになれないとしたら、もし自分の愛する人にしか 愛情豊かになれないとしたら、私はほんとうには 成熟していない。

その場合、愛するためにすら 私は誰かに 依存してしまっている。
誰かが そこに いなければならないのだ。
そうしてはじめて 愛することができる というわけだ。

そうしたら その愛は 非常に表面的なものでしかない。

もし 部屋のなかに独りっきりでいるときには まったく愛することができない としたら、その愛するという資質は まだ深いものに なっていないということだ。
それはまだ 私の存在の一部とはなっていない。


 依存しなくなればなるほど、それだけあなたは成熟する。

もし独りで 怒ることが できる よ う に な れ ば、あなたは もっと成熟する。
怒りには どんな対象もいらない。

そこで はじめのうちは 私は浄化(カタルシス)を 絶対必要なものとする。
あなたにとって 絶対必要なことは、あらゆるものを 空へ、ひろびろとした空間(スペース)へ 発散させること。
どんな対象も 気にとめないで------。


 怒るがいい。
ただし 怒りたいと思う 相手を 抜きにして------。

泣くがいい。
ただし、ただ理由もなく。

笑うがいい。
笑う対象なんか抜きにして ただ笑ってごらん。

そうしたら、あなたは ためこんできたもの いっさいを発散できる。

ただ投げ棄ててしまえばいいのだ。

ひとたび そのコツを知ったら、あなたは過去の重荷から すべて解放される。


 やがて あなたは 一生の重荷から解放される。
否、一生どころか 何生にもわたる重荷からも------。

あらゆるものを投げ棄てる用意があれば、そして 狂気が表に出るのを 許すことができれば、まもなく 深い浄化が起こる。

いまやあなたは 洗われた。
新鮮に甦り、無垢になり、そして ふたたび 幼な児に戻る。
そうなると今度は、その 無垢のなかで 坐る瞑想が可能になる (ただ坐るなり、ただ横たわるなり、何でもいい)。

なぜなら、もう その坐る瞑想を妨げるような「狂人」は 内側にいないのだから。

最初に なすべきことは洗浄、つまり 浄化(カタルシス)だ。
さもなければ 呼吸の訓練や、ただ坐ることや、坐法(ヨーガのポーズ) などをやっても、あなたは何かを ただ抑圧するだけだ。


 それに、非常に不思議なことが 起こってくる。
あなたが あらゆるものを発散するにまかせた と き に は、ただ坐る ということが 起こってくる。
坐法(アーサナ)が 起こってくるのだ。
それは 自然発生的なもの------。

 あなたは ヨーガの坐法については 何も知らないかもしれない。
なのに、それを やりはじめる。

そうなったら そのポーズは本物だ。 現実(リアル)なものだ。
それは あなたの身体のなかに 大きな変容を もたらす。
なぜなら、いまや身体自身が それをやっているのだから。
あなたが 強制しているわけではない。

 たとえば、誰かが いろんなものを発散したら、その人は 逆立ちしようと しはじめるかもしれない。
シルシアーサナ(倒立)を おそわったことはないかもしれないが、いまやその人の全身が それをやろうとしている。
もうそれは 非常に内的なものだ。
それは彼の 内なる体の知恵から やってくる。
知的な 頭脳的な情報からではない。
体が「逆立ちしよう」と主張するとき それを許したら、彼は それによって 爽快になり、変身したように感じる。


 どんなポーズをとっても かまわない。
ただし、私はそれらのポーズが ひとりでに生じたときにしか それを許さない。
人は沈黙して シッダーサナ(ヨーガの坐るポーズ) のかたちや あるいは他のポーズで坐ることもできる。
が、私の言う シッダーサナは まったくちがうものだ。
質が ちがう。

その人は静かに 坐 ろ う と努めるが、私の言うシッダーサナは 起こること(ハプニング)だ。

そこには どんな抑圧も ないし、どんな努力も ない。

ただあなたの体が そのように感じるにすぎない。
もう 全身全霊が坐りたい と感じているのだ。
そういうふうな坐り方なら 心(マインド)が分裂することもないし、抑圧もない。

そういうふうに坐れば それはひとつの開花となる。


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(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.92-94