OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第四章 FROM THE BEYOND〈彼方〉から / ④

 
憶えておきなさい

ブッダは 瞬間から瞬間へ生きる
さながら大海原に湧き上がる雄大な波のように------

大いなる喜びと踊りをもって
星々にまで届こうという希望と夢をもって
その波は湧き上がる

そうしてしばらく瞬間をたわむれ、そのあと波は消える
それは また現われる
それには また別の日がある
それは 再び踊り、再び去って行く

神も またしかり------
現われては消え、また現われては消える

ブッダ意識もしかり------
瞬間ごとに それはやって来て、行為し、対応し、そして去って行く

それは再びやって来て、また去って行く
それは原子的だ
二つの瞬間のあいだに 一つの 間隙(ギャップ)がある
その間隙(ギャップ)のなかに ブッダは消える

私はあなたに ある言葉を言って、それから消える
次に、私は別の言葉を言って、そこにいる
それから私は 再び消える

私は あなたに対応し、それがすんだらもういない
対応が 再びそこにあり、そして私はもういない

その 合い間、空間、その虚空が、人を完全に新鮮に保ちつづける
なぜなら 死だけが あなたを絶対に生き生きと保つことができるからだ

あなたは 一度は死ぬ、七十年後には・・・・・・
あなたは 七十年間の ごみをためる

ブッダは 瞬間ごとに死ぬ
どんなごみも ためられてはいない
どんな ものも ためられてはいない
どんなものも けっして所有されない

だからこそ仏陀は、先日
「相(マーク)を所有することは欺く者になることである」と言ったのだ
なぜなら 所有は 過去のものだからだ
相(マーク)を 所有しないということが ブッダであるということだ


ちょっとそれを考えてごらん

一瞬一瞬が、ちょうど息のように、生じている

あなたは息を吸い、息を吐き出す

ひとつひとつの 吸う息が 生であり、ひとつひとつの吐く息が 死だ

あなたは 息を吸うたびに生まれ、息を吐くたびに死ぬ

一瞬一瞬をして生と死たらしめるがいい
そうすれば あなたは新しくなる
この新しいものは あなたの過去、意志、指向、衝動とは なんの関係もない

それは 臨機応変に行動するはずだ
それは 反応(リアクション) ではなく 対応(リスポンス)だ

過去をもとに為されたことは すべて古い
そのために人は 自分だけでは何ひとつ新しいことができない
それを 見 る ことは、古いもの、過去、自分自身と手を切ることだ

私たちにできることは ただそれだけだ
だがそれが全部だ、それがすべてだ
古いものが終わるとすぐに、新しいものが 続くかもしれないし、続かないかもしれない
それは 大した問題ではない


新しいものに対する願望そのものが 古い願望だ

そのときには 人はまったく開放的になる

新しいものを求めることさえ古い願望だ


ブッダは新しいものを求めることさえしない
何かに対して、それはこのようにあるべきだという欲望はまったくない
欲望があれば、あなたはそれを そのように管理する
あなたはそれに 自分自身を押しつける


生を 無欲に見なさい
生を どんな条件もなく見なさい
生を あるがままに見なさい
ヤター・ブータム------

そうすれば あなたはたえず蘇り、真新しくなる
それが〈復活〉の 真の意味だ
もしこれを理解したら、あなたは 記憶から解放される

それは心理的な記憶だが------

記憶は死物だ
記憶は真実ではない、けっしてありえない
なぜなら 真実は つねに生き生きとしているからだ
真実は生命だ
記憶は もはやないものへの固執だ
それは 亡霊の世界に住んでいる

だが それは 私たちを包む
それは 私たちの牢獄だ
実際のところ、それは私たちだ
記憶は、「私」、自我(エゴ)と呼ばれる結び目、複合体(コンプレックス)を創り出す

そして当然「私」というこの偽りの実体は たえず死をおそれている
あなたが 新しいものをおそれるのはそのためだ


この「私」が おそれている、ほんとうの あなたではない
存在(ビーイング)は 恐怖をもたない
だが自我(エゴ)は 恐怖をもつ
なぜなら自我(エゴ)は 死ぬことを非常におそれているからだ

自我(エゴ)は 人工的なもの、かってにつくられたもの、組 み 合 わ さ れ た も の だ
それは いつでもばらばらになりうる
そして新しいものが入ってくるとき、恐怖がある
自我(エゴ)は おそれる
ばらばらになるかもしれないからだ

それは どうにか自分を繋ぎ合わせよう、自分を ひとつの塊に保とうとしてきた
そしていまや 何か新しいものがやって来ている
それは めちゃめちゃにするものだ
だからあなたは 新しいものを 喜びをもって受けいれない

自我(エゴ)は 自分が死ぬのを 喜びをもって受けいれることはできない

どうして自我(エゴ)に、自分自身の死を喜んで 受けいれることができよう?

自分は自我(エゴ)ではない ということを理解しないかぎり
あなたは 新しいものを受けいれることはできない

ひとたびあなたが このことを見たら・・・・・・
自我(エゴ)はあなたの 過去の記憶で、それ以上の何ものでもないということ
あなたは あなたの記憶ではない ということ
記憶はちょうど 生体計算機(バイオ・コンピューター)のようなものだ ということ
それは実用的な機械、機構だ ということを------

だが あなたは それ を超えている

あなたは 意 識 だ、記憶ではない

記憶は 意識のなかの 中身だ

あなたは 意識 そのものだ


…⑤に つづく

(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985) pp.210-216