OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

「第四章 / 静かに黙する瞑想」Q & A 01の ①

(瞑想:祝祭の芸術より引用)

質問------
「ダイナミック瞑想は非常に活動的で、奮闘を要します。
ただ静かに黙して坐るだけでは 瞑想に入ってゆけないのでしょうか?」


 ただ坐るだけでも 瞑想に入ることは できる。
ただしそのときは ただ 坐っているがいい。

そのほかには 何もしないこと。

あなたに ただ 坐っていることができれば、それは瞑想になる。
坐ることに 完全に没入してごらん。
不動を 唯一の動きにするがいい。


 実際、「禅」という言葉は「坐禅」に由来している。
坐禅 というのは「ただ坐ること------何も為すことなく」ということだ。

体では 何もせず、心(マインド)でも 何もせず、ただ坐ることができれば、それが瞑想になる。
が、それは むつかしい。


 何かほかのことを やっているときは、あなたも楽に 坐っていられる。
が、何もしないで ただ坐っているとなると、その瞬間それは問題となる。

体中の組織が 内側で動きはじめるのだ。
体中の血管という血管、筋肉という筋肉が動きだす。
あなたは かすかな震えを感じはじめるだろう。
いままで まったく気づかなかった体の いろいろな部位に気づくようになる。

そして ただ坐ろうと すればするほど、ますます自分のなかに動きを感じる。
だから、まず 何かほかのことをしてから はじめてただ坐る という手法を使うことができる。


 ただ歩くことはできる。 その方が易しい。

ただ踊ることもできる。 この方が もっと易しい。

ほかの易しいことを やってきたあと------そのあとなら あなたは坐ることができる。

実際のところ、仏陀の姿勢で坐るのは 最後にやるべきことであって、けっして最初に やるべきことではない。

「動」との同化を 全面的に感じられるようになって はじめて「不動」との 全面的な同化も感じられるようになる。


 だから、私はみんなに ただ坐ることから始めよなどとは絶対に言わない。
始めやすいところから始めるがいい。
さもなければ、あなたは 不必要にいろいろなことを感じだす。
そこにありもしないことまでも------。


 坐ることから始めたら、内面に 大いに動揺を覚える。
ただ坐ろうと すればするほど ますます動揺する。
ほかのものには何も気づかず、あなたは自分の 狂気だけを自覚するようになる。
憂鬱に なってくる。
あなたは 欲求不満になり、歓びを 感じなくなる。

それどころか、自分が 気違いじみている と感じるようになる。
ときには、実際に狂ってしまうかもしれないのだ!

「ひたすら坐ろう」と まじめに努力したら、あなたは ほんとうに狂うかもしれない。
ただみんな 心底まじめにやろうとしないから それほど気違いが出てこないだけのこと。
坐る姿勢をとると 自分のなかの たいへんな狂気に気づくようになって、まじめに それを続けたら、あなたは ほんとうに 気が狂うかもしれない。
そういうことは いままでに何回も起こった。

だから、私は 欲求不満や 憂鬱や 悲しみを生み出すようなもの、自分の狂気を 意識しすぎるように させるものは けっして勧めない。


 あなたは、自分のなかにある狂気を すべて自覚する用意はできていないかもしれない。

ものごとが 少しずつ わかってくるのに まかせなければならない。
知る ということが 必ずしもいいとはかぎらない。

知識を吸収する あなたの力が成長するにつれて、それは徐々に 姿を現わすようになるべきだ。


 私は あなたの狂気から手を着ける。
坐る姿勢からではない。
私は あなたの狂気を 認める。
狂ったように 踊ることで、あなたは 自分の 内側の静かな、沈黙している地点に 目覚めるようになる。

逆に、静かに坐った場合は 狂気に気づきはじめる。
自覚のポイントは 必ず反対側にあるものだ。


 あなたが 狂ったように混沌と踊ることで、泣き叫ぶことで、混沌たる呼吸をすることで、私は あなたの狂気を許している。
そうやって狂気を表出するなかで、内側にある 微妙な点、深い地点に 気づきはじめる。

それは沈黙し、静止していて、周辺の気違いざたとは 対照的だ。

あなたは 歓びに満ちるだろう。

あなたの中心(センター)には 内なる沈黙が 存在するのだ。

が、ただひたすら坐っているときには、その 内側のあなたは 狂ったあなただ。
あなたは 外見は静かだが、内部では狂っている。


 能動的なもの、積極的で 生き生きしていて 動きのあるものから始めるなら、その方がいい。
そうすると、内なる静けさが 成長してゆくのを感じてくる。
その静けさが 成長すればするほど、それだけ坐る姿勢や 横臥の姿勢をとることが容易になる。

つまり それだけ静かな瞑想が可能になる ということだ。
が、それまでには事態は すっかりちがっているはずだ。

 動くこと、行動から始まる瞑想法は、ほかの点でも あなたの助けになる。

それは浄化 (カタルシス) になるのだ。

ただ坐っていると あなたは欲求不満に おちいる。
心(マインド)は 動きたがっているのに あなたは ただ坐りっぱなしだ。
あらゆる筋肉、あらゆる神経が動こうとする。
あなたは 不自然なことを自分に 無理強いしようとしているのだ。
そうしたとき、あなたは自分自身を 強いる者と 強いられる者とに 分裂させてしまっている。

そして実際には、強いられ、抑圧されている部分の方が 本物の部分なのだ。
それは抑圧している部分よりも主要な 心(マインド)の部分------。
そしてその主要な部分の方が 当然 勝つことになる。


 あなたが抑圧しているものは ほんとうには抑圧されるのではなく、投げ棄てられてゆかねばならないものだ。

たえず抑圧してきたために、それは あなたのなかで蓄積物になってしまった。
躾だの文明だの教育だの、そういったものの全体が 抑圧的だ。

あなたは、もっと別の 教育を受けたなら たやすく発散できたはずのものを たくさん抑圧してきた。
もっと意識的な教育、もっと自覚的な 親子関係であったなら発散できたはずのものを------。

心(マインド)のメカニズムに もっとよく気づいていたなら、あなたは 文化によって いろいろなものを発散させることができていただろう。

 たとえば子供が 怒っているとき、私たちは「怒るのはよしなさい」と言う。
と、その子は 怒りを抑えつけるようになる。

ほんのちょっとした出来事だったものが だんだん恒常化してゆく。
そうなると今度は、その子は 怒ったふるまいは しなくなるが、実は依然として 怒っているのだ。

私たちは 単に一時的な事柄から あまりにもたくさんの怒りを ためこんできた。
怒りを 抑圧してでもこないかぎり、四六時中 怒っていられる人は誰もいない。


 怒りは 来てはまた去りゆく 束の間のもの。
それ が表に 現わされたら、あなたはもう 怒 ら な い 。

だから、私なら子供が もっと腹の底から怒るままに放っておくことだろう。
怒るがいい。
だがその怒りの なかに深く没入することだ。
怒りを 抑圧してはならない。

 むろんそこにも 問題はいろいろある。
「怒れ」と言えば あなたは 誰かに向かって怒るだろう。

そして、子供は どんな形にでも育てられる。
子供に 枕をあてがい、こう言うこともできる、
「枕に向かって怒るんだ! 乱暴したかったら 枕にしなさい!」

 子供は はじめから 怒りをそらせるような育て方で 育てることができる。
子供は 何か 物を与えられ、怒りがなくなるまで その物を相手に あばれることができる。
数分、いや数秒のうちに 子供は怒りを発散して、もうそれを ためこむことなどない。


…01の ②に 続きます・・・。

(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.88-92