OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

「第四章 / 静かに黙する瞑想」Q & A 01の ③

 
 蓮華の上に坐っている仏像を見たことがあるだろう。
その蓮は ただの象徴だ。
仏陀の内面に起こっていることを 象徴しているにすぎない。
内面から「ただ坐ること」が 起こるときは、さながら 一輪の花が開いているように感じられる。

外側からは 何も抑えつけられていない。
それどころか、そこには成長があり、内面からの開花がある。
内面の 何かが開き、花咲くのだ。


 あなたも 仏陀のポーズの まねならできる。
が、開花は まねできない。

完全に仏陀の よ う に 坐ることならできる。
仏陀よりも 仏陀らしく坐ることさえも------。
だが、そこには 内なる開花はない。
それは まねすることなどできない。


 ごまかすことは できる。
強いて自分を 鎮静させ、心(マインド) を抑えつけるような 呼吸のリズムを使うことはできる。

息というのは 非常に抑圧的に使えるものだ。
というのも、息が 律動するごとに ある特定の気分が 心(マインド) に 湧き上がるからだ。

ほかの気分が 消え去ったわけではない。
ただ 隠れただけだ。


 あなたは どんなものでも自分自身に押しつけかねない。
怒りたかったら、怒りが 生じるようなリズムで呼吸するがいい。
役者たちが それをやっている。
怒りを表現したいとき 彼らは呼吸のリズムを 変える。
その呼吸のリズムは ちょうど怒っているときと 同じにしなければいけない。

呼吸のリズムを 速めることによって、怒りを感じはじめるのだ。
心(マインド)のなかの 怒りの部分が出てくるのだ。


 そんなわけで、呼吸のリズムは 心(マインド)のなかの どんなものでも 抑圧するために使うことができる。

心(マインド)のなかのものは 何でも抑えつけられる。
だが それは よくない。
それは 開花ではない。 別の方法の方がいい。

つまり、まず心(マインド) が変わり、その結果として息が変わる という方法------。
変化は まず心(マインド)から 生じるのだ。


 そこで、私は 呼吸のリズムを 標識(サイン)として用いる。
たとえば、自分に くつろいでいる人は、たえず同じリズムの呼吸を続ける。
そのリズムは けっして 心(マインド)のせいでは変わらない。
それは 体のせいで変わる。

もしあなたが 走っていたら リズムは変わる。
だが、絶対に 心(マインド) のせいでは変わらない。


 タントラは 実に多くの呼吸リズムを 秘儀として使ってきた。
タントラでは性交すらも 瞑想として許している。
が、彼らが許すのは 性交の際に 呼吸のリズムが 一定であるときだけだ。
さもなければ 許しはしない。

もし心(マインド)が 巻きこまれたら、呼吸のリズムは 同じままではいられない。
また もし呼吸のリズムが 同じままなら、心(マインド)は 少しも巻きこまれていない。
性交のような 深い「生物的」なものにさえ 心(マインド)が 巻きこまれないとしたら、ほかの どんなものにでも 巻きこまれることはない。


 しかし、強制することはできる。
あなたは坐って 体に特定のリズムを強いて、仏陀もどきのポーズをとることだってできる。
が、あなたは 死んだも同然だ!
あなたは 鈍く、愚かになる。

このことは非常に多くの 僧侶や 修行者たちに起こってきた。
彼らは まったく馬鹿になる!
彼らの眼には 知性の光は一切ない。
彼らの顔は まさに白痴的で、内なる光、内なる炎はない。

彼らは 内なる動きを おそれているから、あらゆるものを抑えつけてきた。

知性も 例外ではない。
知性というのは 一種の動き、最も微妙な動きの ひとつだ。
それだから、もし 内なる動きが すべて抑えつけられたら 知性も その影響を受けることになる。


 覚醒は 静的なものではない。
覚醒もまた ひとつの動きであり、ダイナミックな流れだ。
したがって、もし外面的なものから 始めたら、もし無理に 仏像のように坐ったら、あなたは 多くを殺すことになる。

すっかり空っぽになるように、まず浄化 (心を洗浄すること、あらゆるものを発散させること) に かかわることだ。
ちょうど〈彼方〉からの何かが 入ってくる通路のように------。

そうしたら 坐ることは 有益だ。
が、それ以前は だめだ。


 私にとって、静寂は ただそれだけでは値打ちのあるものではない。
あなたは 死んだような静寂を つくり出すことだってできる。
ほんとうの静寂は 生き生きとダイナミックなものでなければならない。
もし静寂を つくり出そうものなら、あなたは ますます愚かに、鈍く、死んだようになってゆく。
だが ある意味では その方が易しい。

そこでたくさんの人たちが それをやっている。
文化全体が 抑圧的になっているから、自分を いままで以上に抑圧する方が 楽なのだ。

そうしたら どんな危険もおかさなくてすむし、飛躍(ジャンプ)しなくてすむ------。

人々は 私のところへ やってきて こう言う、「どうか 静かにやれるような瞑想法を 教えてください。」

 この おそれは何だろう?

誰も彼も 内側に気違い病院を かかえているものだ。
が、それでもなお こう言う、「静かにやれる技法(テクニック)を 教えてください。」

だが、静かな技法では ますます 気がおかしくなってくるだけ------。

そうなるしかないのだ。


 あなたの その「気違い病院」の 扉を開かなければならない!

人が 何を言うかなど こわがることはない。

他人が どう思うかを気にする人は 絶対に内面へは進んでゆけない。

そういう人は 他人が どう言っているか、他人が どう思うか心配するのに 追いまくられるだけだ。


 もしあなたが 眼を閉じて、ただ黙って 静かに坐れたら万事オーケーだろう。
妻なり夫なりが あなたは とてもいい人になった と言うことだろう。

誰もが あなたを死んだようにさせたがる。

母親たちでさえ 自分の子供たちを死んだようにさせたがる。
従順で おとなしくさせたがる。

社会全体が あなたを死んだようにさせたがる。


 いわゆる「いい人」たち というのは 実際は 死んだも同然の人たちだ。

だから、他人が何と思っているか ということに かかずらわないこと。

他人が抱いている あなたのイメージなど気にしないこと。


 浄化(カタルシス)から始めるがいい。
そうすれば、すばらしいものが あなたのなかで花開く。
それは ひとつちがった質のもの、異なった美しさ、まったく異なったものになる。
それは 本物だ。


 静寂が訪れるとき、静寂が 降りてくるときには、それは 偽物ではない。
あなたがそれを 養ってきたわけではない。

静寂が あなたを訪れるのだ。
それは あなたに起こるのだ。
あなたは 自分のなかで 静寂が成長してゆくのを感じはじめる。

ちょうど母親が 赤ん坊の成長してゆくのを 感じはじめるように------。

深い静寂が あなたのなかで はぐくまれている。
あなたは 静寂を みごもったのだ。

そうして はじめて変身が起こる。
さもなければ それは ただの自己欺瞞だ。

そして、人は 何生にもわたって自分自身を欺くこともできる。
その自分を欺く力は 無限だ。


(「Q&A 01」おわり… )

(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.95-98