OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

「瞑想 - 祝祭の芸術-①」Meditation: The Art of Celebration

 私たちは、子供を 心 (マインド)の焦点を定めるように、つまり集中するように躾る。
なぜなら、集中しなければ 子供は人生に うまく対処してゆけないからだ。
生は それを要求する。
心(マインド)は 集中できるようにならなければならない。

ところが、集中できるようになると すぐに、醒めている ということが少なくなる。


 覚醒とは 意識はしているが 焦点は合わせていない心(マインド)を意味する。
覚醒とは 起こっていること すべてを意識すること。


 集中とは 選択だ。
それは集中の対象以外は すべて しりぞける。
それは 狭めることだ。

街の通りを 歩いてゆくようなとき、歩くために あなたは自分の意識を狭めなければならない。
起こっている全てに 常に醒めているわけにはゆかない。
というのも、万事に醒めて気づいていたら 焦点は合わされていない状態になるからだ。

だから集中は 必須のものだ。
心(マインド) の集中というのは生きるために、生きのび存在していくために必須のものなのだ。
あらゆる文化が それぞれの方法で、子供の心(マインド)を狭めようとしているのはそのためだ。


 子供たちは、あるがままでいたら、何にも焦点を合わせようとしない。
子供たちの意識は、まわり中に開いている。
あらゆるものが入ってきて、どんなものも除外されない。
子供は あらゆる感覚に対して開いている。
彼の意識のなかには 一切の感覚が含まれる。

そして、なんと多くのものが入ってくることか!
子供が あれほどに揺れ動いて 不安定なのはそのためだ。
子供の いまだ条件づけされていない 心(マインド)は ひとつの流体------感覚の流れだ。

しかし、彼は こうしたタイプの 心(マインド)では 生きのびられない。
彼は どうやって心(マインド)を狭め、集中するのかということを 習い覚えてゆかねばならない。


 心(マインド)を 狭める瞬間、あなたは ある特別な ひとつのものだけを意識し、同時に その他の多くのものに対しては 無意識になる。

心(マインド)が 狭められれば狭められるほど 成功の可能性もふえる。
あなたは専門家に、熟練者になるだろう。
だが ことの全体は、知識ばかりがふえて その対象は ますます限定されてゆくことになる。


 心(マインド)を 狭めることは生存するのに必要なことだ。
誰もそれに責任はない。
この生のあり方のままでは、それは必要だ。

だが 狭めるだけでは充分ではない。
たしかに実利的ではある、が、ただ生きながらえる だけでは充分ではない。

単に実利的である ということだけでは充分とは言えない。
だから、実利的になったら、意識は狭められ、あなたは心(マインド)の 有能なはずの部分を 否定することになる。

あなたは 心(マインド) 全体を 使ってはいない。

その ごく小さな部分を使っているだけだ。
そして、残り、大部分を占める残りは 無意識になる。


 事実、意識と無意識のあいだには 境界線などない。
これらは 二つの 別々の心(マインド)ではない。
「意識する心(マインド)」とは 狭める過程で使われてきたほうの部分を意味し、
一方、「無意識の心(マインド)」とは その過程で 打ち捨てられ、黙殺され、閉ざされてきた部分を指す。
これが 分裂をつくり、亀裂を生じさせる。

あなたの心(マインド)の より大きな方の部分が、あなたと疎遠になってくる。
あなたは 自己自身から疎外される。
あなたは、あなた自身の全体性に対して 異邦人になる。


 心(マインド)のうちの 小さい部分だけが あなたの「自己」とみなされて、残りの部分は失われる。
しかし、この残りの無意識の部分は 使われざる潜在性、用いられざる可能性、経験されざる冒険として常に存在する。

この無意識の 心 (この潜在的な、この使われざる心-マインド)は、いつも 意識する心(マインド)と 一戦まじえている。
いつも内部に 葛藤があるのは そのためだ。

誰もが、この無意識と有意識のあいだの亀裂のために 葛藤している。
だが、この潜在性、この無意識が 花開くことを許されて はじめてあなたは実存の歓びを 感じることができる------。
さもなければ感じることはできない。


 潜在的可能性をもった その主な部分が満たされないまま残ると、あなたの人生は欲求不満に お ち い る。

人が実利を 追えば追うほど満たされなくなり、至福(よろこび)を 感じなくなってくるのはそのためだ。
そのアプローチが 実利的で あればあるほど------つまり、生の上で ビジネスが ふえればふえるほど------生きる ということが少なくなり、エクスタシーは ますます感じられなくなる。
心(マインド)の実利的な世界で 役立つようにはできていない部分は、ずっと否定されてきたのだ。


 なるほど、実利的な生活は必要にはちがいない。
だが、それは かえって高いものにつく。
あなたは 生の祝いを失ってしまった。

しかし、もしあなたの 潜在的可能性が すべて花開いたなら、生は祭りとなり、祝いとなる。
そのときには、人生は ひとつのセレモニーだ。
私がいつも、宗教とは 人生を 祝いに変えることだと言うのは そのためだ。

宗教という次元は お祭り気分の次元であって、実利的な次元ではない。


 実利的な心(マインド)が 心(マインド)全体だと思わないこと。
その残りの より大きな部分------、心(マインド)全体が そのために犠牲にされるようなことがあってはならない。
実利的な心(マインド)を 目的にしないこと。
それは そこに当然とどまることになる、が、あくまでも ひとつの手段としてだ。
もう一方の、つまり残りのより大きな部分、可能性を潜在させた部分が 目的になるのがほんとうだ。
それこそ私が 宗教的アプローチと呼ぶものなのだ。


 非宗教的アプローチでは、実務的な心(実利的なマインド)が 目的になる。
これが目的になったら、無意識が その潜在する可能性を実現する機会はなくなる。
無意識の部分は否定される。

実利的なものが目的になると、それは召し使いが 主人役を 演じることになる。


 知性、つまり心(マインド)を狭めることは 生きながらえるための手段ではあるが、生のための 手段ではない。
生存と〈生〉とは ちがう。
生存は欠くべからざるもの、物質的な世界に生存することは必要なことだ。
しかし、目的は常に潜在的可能性の開花、あなたという存在によってもたらされた可能性の すべての開花にゆき着く。

あなたが完全に 満たされていたなら、内に どんなものも 種の形で残っていなかったら、何もかもが実現していたなら、もしあなたが ひとつの開花であったなら、そのときには、いやそのときこそ はじめてあなたは〈生〉の至福を、エクスタシーを 感じることができる。


 あなたが 自分の生に 新しい次元を加えさえすれば、あの否定された部分や無意識の部分は 生き生きと創造的になることができる。

その次元とは お祭り気分という次元、遊びという次元だ。
・・・だから、瞑想は仕事ではない。
それは 遊びだ。

祈りとは ビジネスではない。
それは ただ遊びなのだ。

瞑想は、何かのゴール (静寂、至福等------)に 到達しようとして 為されるものではない。

それは、それ自体が すでに目的であるものとして 楽しむ 何かだ。


 お祭り気分の次元 festive dimension は理解されるべき最も重要なことだ。
だが、私たちは それを すっかり失ってしまった。

お祭り気分ということで 私が意味するのは、瞬間から瞬間へ、自分に起こること すべてを 楽しむ能力だ。


…②へ つづく・・・

(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者) pp.15-20
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