「瞑想 - 祝祭の芸術-④」Meditation: The Art of Celebration
そういうわけで、私は 活発な動きのある方法の数々を使う。
その方法が激しく 活動的であればあるほど、あなたの計算高い心(マインド)は 少しずつ必要でなくなっていく。
その方法が激しく 活動的になればなるほど、それは よりトータルなものになる。
というのも、活力とは 心(マインド)だけのものではなく、肉体のものでもあり、感情のものでもあるのだから------。
それは あなたの 存在全体のものなのだ。
スーフィの僧たちは、踊りを一種のテクニックとして、一種の方便として用いてきた。
踊りのなかに入ったら、あなたは知性的に すましてはいられない。
なぜなら、踊り とは 骨の折れる大変な現象だからだ。
あなたの全存在が 必要とされる。
そうすると、踊りが 無心の境地になる瞬間が 必ずやってくる。
より生き生きと、より激しく より深く 踊りのなかに入ってゆけばゆくほど、理性は ますます少なくなってゆく。
だから、踊りは あなた方を押しやるためのテクニックとして 創案されたのだ。
ある時点が くると、あ な た が 踊 る ということは なくなる。
踊り が あなたに取って代わる。
踊りが あなたを乗っ取る。
あなたは未知なる根源へと 押し流される。
禅の師家たちは 公案という方法を用いてきた。
公案とは その本性からいって 不条理なパズルだ。
理性では 解けない。
公案について 思考することはできない。
一見、公案は 考えられるもの のようにみえる。
それが罠だ。
思考できるように みえるものだから、あなたはさっそく 考えはじめる。
あなたの 理屈好きな心(マインド)は 安心する。
解決すべきもの (公案)が その心(マインド)に与えられたのだ------。
ところが与えられたのは 解答不可能な ものなのだ。
公案の本性自体 まさに解くことができないところにある。
その 本性そのものが 不条理なものだから。
何百という謎々(パズル)が ある。
禅の師家は こう言う、
「無音の音について考えよ。」
言葉の上では、それは 考えられることのように みえる。
一生懸命やれば どうにかこうにか、どこかで「無音の音」がみつかる------それは可能かもしれない。
そうやって考えているうちに、ある時点で (そして、その時点は予知できない。それは人によって違う) 心(マインド)が くたくたになって倒れる。
それ は 消える。 あなた は 在る。
心(マインド)は その一切の条件づけと ともに消え去っている。
あなたは ちょうど 幼な児のようだ。
条件づけは なくなっている。
あなたは ただ意識しているだけだ。
狭めさせる集中は そ こ に は な い。
いまや、あなたは その方便は 必要なかったと知る。
だが、これは 後で考えたことだ。
前もって 言ってはならないことだ。
どんな方法も 原因とはならない------どんな方法も 瞑想のための原因とはならない。
だからこそ、いろいろな方法が 可能なのだ。
どんな方法も ただの方便にすぎない・・・。
が、どの宗教も 自分の方法こそ真の道であり、ほかの方法ではだめだ と主張する。
彼らは すべて因果律 という観点から考え て い る の だ。
水は 加熱すると 蒸発する。
熱が 原因だ。
熱がないと 水は蒸発しない。
これは 因果律的なもの。
つまり、熱が 蒸発という現象に先だって 必要な条件となっている。
しかし、瞑想は因果律ではない。
だから、どんな方法も可能になる。
方法はすべて 単なる方便にすぎない。
それはただ、その出来事が 起こるための状況を つくり出しているだけ。
原因と なっているのではない。
たとえば、この部屋の 仕切りの向こうには、境界のない広々とした空(そら)がある。
そして、あなたはそれを 見たことがないとしよう。
私は空について、新鮮なものについて、海について------そういう 部屋の向こうに広がるすべてについて あなたに語りかけることができる。
けれどもあなたは そういったものを 見たことがない。
それについては 何も知らない。
あなたは笑って、私が それを でっち上げているのだと考える。 そして言う、
「何もかも ステキに聞こえるが、あなたは たいした夢想家だね。」
私は あなたを説得して 外に行かせることはできない。
なぜなら、私が語ることはみんな あなたにとって意味をなさないのだから------。
そこで私は こう言う、「家が 火事だ!」
…⑤に 続きます・・・
(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.25-27