OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

「瞑想 - 祝祭の芸術-⑤」Meditation: The Art of Celebration

…… (…「家が火事だ!」)

 これなら あなたにも その意味がとれる。
これなら あなたも理解できる。
私は どんな説明も する必要はない。
ただ走るだけだ。
と、 あなたは ついてくる。
家は 火事などではなかった。

しかし いったん外に出たら、なぜ私が嘘をついたか あなたは問う必要はない。
その嘘の意味は そこにある。

空が そこに広がっている。

いまやあなたは 私に感謝する。
どんな嘘でもいい。
この嘘は 方便だった。

それはあなたを 外へ連れ出すための 単なる方便だったのだ。
その嘘のせいで 外の世界がそこに 出現したわけではない。


 どの宗教も 一種の嘘の方便にもとづいている。
すべて 方法というのものは 嘘だ。
それはただ、ある状況を 生み出しているだけだ。
因果的なものではない。

新しい方便が 創り出され、新しい宗教が 創り出されうる。
昔ながらの方便は 気の抜けたものになる。
昔ながらの嘘は つまらなくなる。

そこで 新しいものが必要になってくる。

あなたはこれまで 何度も何度も、火事でもないのに「家が火事だ」と 聞かされてきた。
この嘘は 効き目がなくなっている。
そこで、誰かが新しい方便を 創り出さなければならなくなっている。


 もし、あるものが何かほかのものの 原因だとしたら、それが無益であることはありえない。
しかし 古い方便は必ず無益だ。
新しい方便が 必要になっている。

だから、どの新時代の預言者も 旧い預言者たちと葛藤する羽目になる。
新しい預言者は 旧い預言者たちがしていたのと同じ業(わざ)を や っ て い る。
けれども、彼は 旧い預言者たちの教えに 反対しなければならない。

なぜなら、気抜けし無意味になってきた諸諸の 古い方便を否定しなければならないからだ。


 仏陀、キリスト、マハヴィーラといった 偉大な人たちはすべて慈悲心から、あなた方を「家」の外へ連れ出すために 偉大な嘘を つくり出してきた。

どんな方便を通してでもいい、心 mind という家から外へ出られるなら、それこそが必要なすべてなのだ。

心(マインド)は 牢獄だ。
あなた方の 心(マインド)というのは致命的なものであり、奴隷的なものだ。


 既に言ったように、このジレンマは 必ず起こる。
生の本性は そういうものだ。

まず、あなたは 心(マインド)を 狭めることを覚えなければならない。
この狭めることは、あなたが 外へ向かって動くときは 役立つが、内部にあっては致命的だ。

それは他人に対しては 実利的だが、自分自身にとっては 自殺行為になる。


 あなたは他人とも共存し、また自分自身とも共存してゆかねばならない。
一方通行の人生は片輪だ。

まず、条件づけされている心(マインド)を使って 他人と共存しなければならないし、また、まったく条件づけされていない意識をもって、自分自身とも共存しなければならないのだ。

社会は 狭めた意識を つくり出す。
ところが、意識 それ自体は広がりを 意味する。
それには 限界はない。

両方とも必要だし、そして 両方とも満たされなければならない。


 その 両方の要求を満たせる人を、私は 賢者と呼ぶ。
どちらの極端であっても 賢者ではないし、いずれの極端も 有害だ。

そんなわけだから この世間のなかでは心(マインド)を、条件づけを使って 生きることだ。
しかし、自分自身とともに生きるには 心(マインド)によらず、躾によらず 生きるがいい。

心(マインド)を ひとつの手段として用いなさい。
目的にしないこと。

機会あるごとに、心(マインド)というものから 抜け出なさい。
独りっきりになったら 抜け出なさい。
脱ぎ捨てるがいい。

それから その瞬間を祝福するがいい。
実存そのもの、存在そのものを 祝福するがいい。


 もし、あなたが 条件づけの脱ぎ方を知ったなら、ただ 存在する というだけで、とてつもなく 大いなる祝祭だ。

この「脱ぐこと」を あなた方は ダイナミック瞑想を通して学んでいくだろう。
それは 因果的なものではない。
それは 原因なしに あなたにやってくる。

瞑想は ただ ある状況を つくり出し、その状況のなかで あなたは 未知なるものへと向かってゆく。

だんだん、あなたは 習慣的、機械的で ロボットまがいの人格から外へ 押し出されるだろう。


 勇気を出しなさい。
「ダイナミック瞑想」を 精力的にやってごらん。

そうすれば、ほかの一切が そ れ に 続く。

それは あなたが する こと ではない。
それは〈起こること〉なのだ。

あなたが〈神性〉を 連れてくることはできない。

しかし、〈神性〉が訪れるのを じゃますることはできる。

家のなかへ 太陽を 連れてくることはできない。
が、ドアを 閉めることはできる。

心(マインド)は 否定的なことは いろいろできる。
が、肯定的なことは 何ひとつできない。
すべて肯定的なものは 賜物だ。
肯定的なものは すべて天恵なのだ。
それは あなたを訪れる。

それにひきかえ否定的なものは すべてあなた自身の行為だ。


 瞑想 (そして すべての瞑想法)に できることは ただひとつ------、あなたの否定的な障害から あなたを引き離すことだ。
それはあなたを 心(マインド)という牢獄から外へ連れ出すことができる。

そして 外に出たとき、あなたは 笑うだろう。
外へ出るのは 実に簡単だった!
それはまさに そこにあった!

ほんの一歩が 必要なだけ だった。


 だが私たちは 堂々めぐりを していて、その一歩は常に 見失われている。

あなたを 中心へと導くことができる その一歩が 見失われている。


 あなたは 同じことを くりかえしながら、円周の上を 堂々めぐりしつづける。
どこかで その連続性が破られなければならない。
どんな瞑想法によっても 為されうることはそれだけのことだ。

もしその 連続性が破られたら、もしあなたが 自分の 過去とのつながりを切ったら、まさにその瞬間こそ 爆発の瞬間だ!
まさにその瞬間、あなたは 中心を得る。

あなたの 存在のなかに 中心を得る。

そのとき あなたは、ずっと あなたのものであった すべてを、そして ずっとあなたを ただ待ちつづけてきた そのすべてを 知る------。
Osho.


(meditation art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.27-30
 
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