OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

「瞑想 - 祝祭の芸術-②」Meditation: The Art of Celebration

 私たちは あまりに条件づけられ、習慣が あまりに機械的になってしまっているので、やらなければならないビジネスなど 何もないときでさえ、心(マインド)は 実務的という次第だ。

狭める必要のないときまで あなたの心(マインド)は 狭められている。
遊んでいるときでさえ、ほんとうには遊んでいない。
あなたは 遊びを楽しんでいない。
トランプを やっているときでも、それを楽しんではいない。
勝負に 勝つためにやっているだけだ。

そうなったら 遊びは仕事になる。
そうなったら いま何がどう動いているかより、結果だけが 重要になってゆく。


 ビジネスでは 結果が肝心だ。

お祭り festivity では 行為が大切だ。

どんな行為でも その 行為それ自体を大切にできたら、あなたは お祭り気分になって それを祝福できるようになる。


 祝福の内にあるときには いつでも、限界線、狭めることで生じる限界線は 打ち破られる。
それは いらない。
それは 投げ出される。

あなたは 拘束服を脱ぎ捨てる。
集中 という狭苦しい拘束服を------。

もうあなたは 選んでいない。
来るものすべてを、その来るがままに まかせる。
そうして、全存在が 入ってくるままに まかせるや否や、あなたは それと ひとつになる。

そこには コミュニオン(交流)が 起こったのだ。


 このコミュニオンを 私は瞑想と呼ぶ。

この祝福、この無選択の覚醒、この仕事抜き の姿勢を 瞑想と呼ぶのだ。
お祭り は 瞬間のなかにあり、行為のなかにある。

けっして 結果を気に病んだり、何かを達成しようとすることの なかにはない。
達成されるべきものなど ありはしない。
だから、いま ここに あるものを楽しむがいい。


 それは こんなふうにも言える。
たとえば、私は いまあなた方に 語りかけている------。

そして私が その結果について 心配していたとしたら、そのときは 話がビジネスになってしまう。
それは 一種の仕事になってしまう。

しかし、どんな期待もなく、結果について どんな願望もなく語りかけたら、そのときには 話は 一種の遊びとなる。
行為 そのものが それだけで目的になるのだ。
そうしたら、焦点を狭める必要などない。

私は 多くの言葉で遊ぶことができるし、さまざまな思考でも また遊ぶことができる。
あなた方の 質問で遊べるし、自分の解答を使って 遊ぶこともできる。
そうしたら、それは 深刻なものではない。
気楽 な ものだ。


 そして、私の話から 何か聞き出そうなどと考えずに ただ 耳を傾けていたなら、あなたは くつろいでいられる。
そのときにはあなたは、私があなたと 深く交流するままにまかせられる。
そして意識は 狭められることはない。

そうなったら、それは 開いている。

戯れたり、楽しんだりしている------。


 どんな瞬間も ビジネスになりうるし、

また どんな瞬間も瞑想的な 瞬間になりうる。

そのちがいは 姿勢のなかにある。
その瞬間が 選択抜きのものなら、そしてあなたが その瞬間を 遊んでいられたら、それは 瞑想的となる。


…③に 続く・・・

(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.20-21
 
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