OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

「瞑想 - 祝祭の芸術-③」Meditation: The Art of Celebration

 社会的な要請と実存的な要請------この二つの要請が満たされなければならない。

私は何も、「子供たちを条件づけするな」とは言わない。
仮に子供たちを まったく条件づけないまま放っておいたら、野蛮になってしまうだろうからね。

そうなったら、子供たちは生活できなくなる。
生活していくには 条件づけが必要だ。
けれども 生活するだけが目的ではない。

だからあなたは、自分の条件づけを ちょうど衣服のように 着たり脱いだり できるようにならなければならない。

あなたは それを着て 外出し、するべきことをして、それから帰宅したら 脱ぐ。
そうしたとき、あなたは 在る。


 もし自分の着物(すなわち自分の条件づけ)を 自分そのものだ と思いこんでいなければ------たとえば「私の 心(マインド)が私だ」などと 思ったりしなければ、------ことはそれほど 難しくない。

そういう場合、あなたは たやすく着替えることができる。

ところが あなたは、自分の条件づけを 自分だとみなす。
「私の条件づけが 私だ」と あなたは言う。
そして、条件づけされていない部分は すべて否定する。

あなたは こんなふうに考える。
「条件づけされていないような部分は すべて私じゃない。
無意識なんて自分のうちに入らない。
自分は意識に上(のぼ)っている部分、焦点の絞られている部分、私は 心(マインド)なのだ。」


 こういう自己同化 identification は危険だ。
こんなことが あってはならない。

適切な教育は条件づけられてはいない。
が、条 件 つ きで 条件づけられる。

その条件づけは 実用のためのもの。
あなたは それを着たり脱いだりできるように ならなければならない。
必要とあらば それを身につけ、不必要なら それを脱げるということ。

人間を、その受けた条件づけで自己同化しないよう 教育できるようにならないかぎり、人間は ほんとうに人間ではない。
ただのロボット、条件づけられ 狭められたロボットだ。


 これを理解することは、今まで 光を当てられてこなかった部分、心(マインド)の 大きい方の部分に 気づくことだ。
そして それに気づくことは、自分は 意識に上っている心(マインド)ではない と気づくことだ。

意識に上っている心(マインド) というのは 単に一部分にすぎない。
「私」は その両方なのだ。

そしてこの心(マインド)の より大きな部分は 条件づけられていない。
その部分は いつもそこに在って待ちかまえている・・・。


 私の 瞑想の 定義は、「ただ無意識のなかへ跳びこんでゆく努力」ということ。

計算ずくで跳ぶ こ と などできない。
なぜなら、計算ということは すべて意識に上っている心(マインド)が することであって、その部分の心(マインド)は 無意識のなかへ跳びこむことなど 許しはしないからだ。

それは こう警告することだろう、「気違いになってしまうぞ。そんなことは やめろ!」


意識は いつも無意識を おそれている。
というのも、無意識のエネルギーが浮かび上がってきたら、意識のなかの静かで 明晰なものは みんな吹きとばされてしまうからだ。

そうなったら、あらゆるものが 暗黒に閉ざされる。
ちょうど 森のなかのように------。


 それはこんなふうなものだ。
たとえば庭を、それも境界線のはっきりした庭をひとつ 造ったとしよう。
ほんの狭い土地が 切り拓かれただけだが、ちょっとした草花も植えたし、万事オーケーだ。

整理され、片づけられている。
ただし、森がいつも そばに いる。

それは 始末におえず。
制御不可能で、庭は常に その森にびくびくしている。
いつ なんどきでも その森は侵入できる。

そうなったら、庭など 跡かたも なくなるだろう。


 同じように、あなたは心(マインド)の 一部を切り拓いてきた。
あらゆるものを 片づけてきた。
けれども、いつも無意識が まわりにいる。

意識に上っている心(マインド)は、四六時中それを おそれている。
それは こう言う、「無意識の部分には入ってゆくな。 それを見てもだめ、考えても だめだ。」


 無意識の道は 暗く未知だ。
理性にとっては それは不合理に見え、論理から見ると 非 論理 的だ。
だから、瞑想に入ろうと 考え ても けっして入ってはゆけない。
というのも、その 考えている部分が、あなたが 瞑想に入るのを 許しはしないからだ。


 これが ジレンマになる。

考えずには 何ひとつできない。

一方、考えて いたのでは瞑想に 入ってゆけない。

さて どうする ?

たとえ「私は考えないぞ」と 考えたところで、それもまた思考のうちだ。
「私 は 思考なんか許さないぞ」と 言い張っているのは 心(マインド)の 思考する部分なのだ。


 瞑想は、思考によっては できない。
これは ジレンマ、最大のジレンマだ。

求道者は みんなこのジレンマに 出くわす羽目になる。

いつかどこかで このジレンマに ぶつかる。

知る人は こう言う。
「跳べ! 考えてはならない!」


 ところが、あなたは考えずには 何ひとつできない。
不必要な方便が 編み出されてきたのは こ の た め だ。

不必要な 方便・・・、なぜなら 考えずして跳べたら どんな方便もいらないからだ。

しかし、あなたは 考えずに跳ぶことなどできない。
それだから方便が 必要になる。


 あなたは方便を 考えることならできる。
思考する心(マインド)は 方便だったら安心できるが、瞑想には安心できない。

瞑想とは 未知なるものへの跳躍(ジャンプ)だ。
あなたは 方便をもとに はたらく(作業する) こ と は で き る。
そしてその方便が 自動的にあなたを 未知なるものへと押しやっていく。
方便は 心(マインド)の 訓練のために必要なだけで、さもなければ そんなものはいらない。

いったん跳んでしまったら、あなたは こう言うだろう、「方便なんて不要だった。そんなものは いらなかったのだ。」

だが、これは いわば回顧的な見方だ。

その方便が不要だった ということを 後になって知るわけだから (これがクリシュナムルティが言っていること。
つまり、「どんな方便も、どんな方法も不要だ」と彼は言う。
また、禅の師家たちも こう言っている、「どんな努力も不要だ。それ は努力なしのことだ」)。

だが、これは まだ障害を乗り越えていない人にとっては 馬鹿げた話だ。
大概は、この障害を 乗り越えていない人たちに 話しかけなければならないのだから。


 だから私は言う、方便は人為的なものだ、と。
それは 理屈好きの心(マインド)を 鎮めて、あなたを未知なるものへと押しやるための 一種のトリックなのだ。


…④へ 続く・・・

(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.21-25
 
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