OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

「第四章_Q & A / 02

 質問------
「しかし、瞑想とはアカルマ (無為)のことではないのでしょうか?」


 ダイナミック瞑想の第四段階は ただのアカルマ(無為、非活動) だ。
が、はじめの三段階は 活動的だ。
第一、第二、第三段階は 強烈な活動なのだ。


 まず第一段階では、あなたの生命体(あなたの呼吸)は 強烈かつ極端な活動に入る。

生命体(プラーナ・シャリーラ、 あなたの呼吸)が 極端なまでの活動に入ることによって、次の第二段階が 可能になる。
あなたはその肉体において 強烈に活動的になる。

第三段階では、生理的に すっかり活発に なったあと メンタル体において 活動的になることが可能になる。


 つまり、あなたは 三つの身体(肉体、生命体、メンタル体) に 活動と緊張の 極限状態を生み出すことになる。
あなたは ますます緊張してゆく。
あなたの存在全体が ひとつの竜巻、渦巻と化す。

それが強烈に なればなるほど、第四段階で リラックスできる可能性は 大きくなってゆく。


 第四段階は全面的な くつろぎの段階だ。
それは練習した くつろぎではない。

実際のところ、誰も くつろぎを練習できるものではない。
くつろぎは 強烈な活動の 副産物、影として訪れるだけだ。

くつろぎを練習するなどという表現は 言葉の意味からして 矛盾している。
どんな練習も 緊張の練習だからだ。


 くつろぎとは無為だ。
そして、無為を練習することなど できはしない。

あなたにできることは ただ 自然にそこに達することだけ、そこに行き着くことだけだ


 強烈な活動によってのみ、あなたの内部に あなたを〈解放〉のうちに連れてゆくような状況が生じる。

したがって 第四段階は アカルマ(無為)だ。
あなたは 何もしない。
いまやあなたは 存 在 する。

あなたは ただ そのなかに存在している。
為すことは 何もない。

何かが進行していたとしても、それはただ起こった ことなのだ。
何かが行われていたとしても、それは 自然によるものであり、あなたによって 為されたものではない。

あなたに関するかぎり、活動は すっかり止まってしまったのだ。
そこには もうどんな活動もない。


 この無為の境地 (アカルマの状態)になると、個性と宇宙性が お互いに近寄ってくる。
いわば ねんごろに なるのだ。

あなたと宇宙は それぞれの自己同一性を失って、重なり合う。
宇宙の何かが あなたのなかに浸透し、あなたの何かが 宇宙のなかに浸透する。
その あいだにあった境界線は、流動的になる。

ときには 境界線は まったくなくなり、あなたは 意識の不在を 感じる。

そこには どんな限界もない。
はじまりも終わりもない。
そして、ときとして境界線が あなたのまわりに 結晶しはじめる。


 この状況は 行ったり来たり ゆらめきながら続く。
ときには境界線があり、ときには それが消える。
しかし くつろげばくつろぐほど、それだけ境界線は 失われる。

それから予想もできない瞬間が や っ て く る 。
原因も 条件もない〈ハプニング〉の瞬間が やってくるのだ。


 ついにはあなたは境界線を失ってしまって、二度とふたたびそれを得ることがないという瞬間がやってくる。

そうしたとき、境界線なき人間、領域のない心(マインド)、 限界のまったくない意識が存在しはじめる。

それこそが宇宙であり、神であり、全体性なのだ!
 
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(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.99-100