第十七章「七つの身体におけるプラーナの顕現」⑤
第六番目の身体にくると、こと は さらにむつかしくなる。
なぜなら、第六身体は もはや生命でさえないからだ。
第六身体に 対しては------何と言えばいいのだろう ?
第五身体を過ぎると、われ が落ちる。
自我(エゴ)が 落ちる。
そのときには どんな自我(エゴ)もない。
あなたは〈全体〉と ひとつになる。
そうなると 今度は、入ったり出たりするのは あ な た の「何か」ではない。
なぜなら、自我(エゴ)は ないからだ。
一切が 宇宙的になる。
宇宙的になるがゆえに、その両極性は 創造 srishti と 破壊 pralaya という かたちをとる。
それだから、第六身体は いっそうむつかしくなるのだ。
その大気圏(アトモスフィア)は 創造力と破壊力だ。
ヒンドゥー教の神話では、この力を ブラフマー、シヴァ と呼ぶ。
ブラフマーは 創造の神格化、ヴィシュヌは 保持の神格化、そしてシヴァは 大いなる死滅、つまり破壊ないし崩壊の神格化、森羅万象が その源泉に還ってゆくところの破壊や崩壊のことだ。
第六身体は、創造性と破壊性、ブラフマーの力とシヴァの力 というこの広大な気圏のなかにある。
瞬間ごとに、創造が起こり、瞬間ごとに あらゆるものが崩壊してゆく。
「私は天地創造を見た。そしてプレラーヤ (終末)も------。 森羅万象が存在のなかに入り、また非在 (無)のなかへ還ってゆくのを見た。」
ヨーガ行者が そう言うとき、彼は 第六番目の身体のことについて 語っている。 そこには自我は ない。
やってきては去ってゆくすべてが あ な た だ。
あなたは それと一体になる。
ひとつの星が 生まれつつある。
それは あ な た の 誕生だ。
今度は その星が消滅している。
それは あ な た の 消滅だ。
そこで、ヒンドゥー教の神話では、「ひとつの天地創造は ブラフマー神の ひと息だ」と言われている------たったの ひ と 息 ! それは 呼吸する宇宙の力だ。
ブラフマー神が 息を吸い込むとき、天地創造が起こる。
ひとつの星が 誕生する------星は 混沌(カオス)から生じる------あらゆるものが 存在のなかへ入ってくる。
そして ブラフマー神が 息を吐くとき、ありとあらゆるものが消え去る。
あらゆるものが止滅する。
星が死に------存在は非在のなかへ 移ってゆく。
だからこそ、第六番目の身体では 非常にむつかしいと言っているのだ。
第六身体は、自己中心的ではない。
宇宙的になる。
第六身体においては、創造に関する すべてが、世界中の宗教が伝えている 天地創造のすべてが わかるようになる。
天地創造について話すとき、人は第六身体と 第六身体にかかわる 知識について話している。
また、大洪水や 世の終末について話すときも、人は第六身体について 語っている。
ユダヤ的(旧約的) キリスト教や バビロニア神話の大洪水、あるいはヒンドゥー神話のプレラーヤ(世界終局) ------そこにあるのは ひ と 出 息 、第六身体の ひ と 出 息 だ。
それは 宇宙的な体験であり、個人的な体験ではない。
それは宇宙的体験だ! あ な た は そこに いない!
第六身体のなかにある人、第六身体にまで 達した人は、死んでゆく あらゆるものを 自分自身の死としてみるだろう。
たとえば マハヴィーラのような人は アリ一匹殺せない。
非暴力の 原則のためではなく、それは マハヴィーラ自身の死だからだ。
死ぬすべてのものが、彼の 死なのだ。
あなたがこのことを、つまり創造と破壊、たえず生じるもの と たえず滅びるものを 自覚するとき、その自覚は 第六身体のものだ。
ひとつの ものが滅びるときは いつでも、ほかのものが 生じている。
太陽が死滅すると、もうひとつの太陽が ほかのどこかで 誕生しつつある------。
この地球が死滅すると、もうひとつの地球が生じるだろう。
…⑥へ つづく・・・
(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.329-331