OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

第十七章「七つの身体におけるプラーナの顕現」④

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 第五番目の身体では------どう表現したらいいだろう ?

ちょうど 低次の身体の住む大気圏(アトモスフィア)が 想念や息や磁力や愛憎であったりしたのと同じように、第五身体の住む大気圏は 生命だ。


 第五身体にとっては、生命それ自体が大気圏だ。
だから、第五身体では 入ってくるときが 生の瞬間、出てゆくときが 死の瞬間だ。

第五身体までくると、あなたは生命が 自分の中にあるものではない ということに気づく。
それは あなたの中に入ってきて、そして あなたから外へ出てゆく。

生命それ自体は あなたの中にはない。
それはちょうど息のように単に 中に入っては外へ出てゆくものだ。

 だからこそ、この第五身体のゆえに「息」と「プラーナ」が 同義語になったのだ。
第五身体ではプラーナ prana という言葉は重要だ。

それは 中に入ってくる生命と 外へ出てゆく生命だ。
死の恐怖が たえず私たちに つきまとっているのはそのためだ。
あなたはいつも、死が すぐそばにいて、角で待ち受けているということに 気づいている。
それは いつもそこにあって待っている。
死がいつもあなたを 待ち受けている というこの感覚、不安、死、暗黒のこの感覚は 第五身体にかかわっている。

それは非常に暗い感覚、非常に漠然としている。
というのも、あなたは その感覚に完全に 無自覚だからだ。


 第五番目の身体に 達して、その身体を自覚する。と、あなたは、生と死は 両方とも第五身体にとって (入っては出てゆく) 息にすぎない ということを知る。

それに気づくとき、自分は死ぬことは できない ということを知る。
死は 先天的な現象ではないからだ。
生も またそうだ。

 生と死は両方とも、あなたに起こる 外的な現象だ。

あ な た は 生きてきたこともなければ 死んだこともない。

あ な た は 生と死の両方を 完全に超越している 何かなのだ。

その超越感は、第五身体において 生の力と 死の力に気づくようになって はじめて感じられる。


 フロイトはどこかで、それを どのようにか垣間見たと述べていた。
フロイトは ヨーガの達人ではなかった。
ヨーガの達人だったとしたら それ を理解するところまでいっただろう。

 フロイトはそれを「死への意志」と呼んだ。
そして誰もが ときには生にあこがれ、ときには死にあこがれる、と言った。

人間には 相反する二つの意志がある。
生への意志と 死への意志------。

それは 西洋人の心(マインド)にとっては まったく馬鹿げたことだった。
この矛盾する 二つの意志がどうやって、ひとりの人間のなかに共存できるだろう ?
が、フロイトはこう言う、「自殺がありうるのだから、死への意志も あるに違いない。」


 どんな動物も自殺することはできない。
動物は 第五身体を自覚できないからだ。
動物たちは 生きていることが自覚できないし、知りえないから、自殺することは不可能だ。

 自殺するには必要なことが ひとつある------生きている ということの自覚だ。
だが、動物たちは 生を自覚していない。

もうひとつ また必要なことがある。
自殺するには、死に対して無自覚でもなければならない。

 動物たちは 生を自覚していないがゆえに 自殺できない。
が、私たちは 生は自覚していても 死を自覚していないがゆえに 自殺が可能なのだ。

もし人が 死に対して 自覚するようになったら、自殺など できるものではない。


 ブッダには 自殺することはできない。
自殺は 不必要だし、無意味だからだ。

あなたは ほんとうは自殺できない、ただ そう装うことができるだけだ、ということを ブッダは知っている。

自殺というのは 単なるポーズはだ。
なぜなら、実際のところ あなたは生きても死んでもいないからだ。


 死は 第五番目の相、第五身体のものだ。
それは特定の エネルギーの流出と流入だ。
あなたは その 流入と流出が起こる そ れ だ。

もしあなたが 前者(流入)と 自己同化していたら、後者(流出)を 為すことはできる。
もしあなたが 生きることに自己同化して、もしその生が 耐えられないものになったら、「自殺してしまおう」と あなたは言うかもしれない。

これは 第五身体が自己主張し、顕われる もうひとつの側面だ。
世の中には、ときに自殺を考えたことのない人間は ただのひとりもいない。
なぜなら、死は生の もうひとつの側面だからだ。

この側面が 自殺か殺人か、いずれかに つながりうる。
そのいずれかに なりうるのだ。

 もし 生に取り憑かれたら、もし死を完全に 否定したいほど生に執着したら、あなたは 他人を 殺すかもしれない。
他人を殺すことによって、自分の死の願望------死への意志を満足させる。

そういうトリックを使って 死への意志を満たすのだ。
そして、ほかの人が 死んだから もう自分は死ぬ必要はない と考える。


 ヒトラームッソリーニなど 大虐殺を犯した人たちは、みな それにもかかわらず非常に 死をおそれている。
彼らは いつも死におびえている。
だから、その死を 他人に投影(プロジェクト)する。
ほかの誰かを 殺せる人は、自分が死よりも 力強いと感じる。
自分は他人どもを殺せるんだ。
「手品まがいのやり方」、「魔法の公式」を使って 彼はこう考える、自分は殺せるから 死を越えている、自分が 人に対して為すことは、自分の身には 為されえない、と。

 これは死の 投 影 だ。 が、それは自分に戻ってくる。
あなたが 多くの人を殺し、しまいには自殺する としたら、それは あなたに戻ってくる投影なのだ。


 第五身体においては、生と死が 自分に来るのにともなって------生命がやってきたり 行ってしまったりすることにともなって------人は そのどちらにも執着できない。

もし執着しているとしたら、あなたは 生と死の両極性を その全体において 受けいれていない ということだ。
そして、あなたは病気になるだろう。


 第四身体までは その両極性を受けいれることは さほどむつかしくなかった。
が、死を 生の別の面とみなして 受けいれることは 最もむつかしいことだ。

生と死を 相似・同一現象------ただ同じもの、ひとつのものの 二つの側面------としてみなすのは、最もむつかしいことだ。
だが、第五身体では それが両極性だ。
それが、第五身体における プラーナ的存在なのだ。

…⑤に つづきます・・・

(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.325-329