OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第四章 FROM THE BEYOND〈彼方〉から / ②

 
私たちは どうすれば新しくなれるのだろう?

ひとりでに 新しくはならない

新しさは〈彼方〉から来る、神からと言ってもいい
新しさは〈存在 (イグジステンス)〉から来る
マインドは つねに古い
マインドは けっして新しくなれない
それは過去の集積だ
新しさは彼方から来る
それは神からの贈り物、彼方からのもの、そして 彼方のものだ


未知なるもの
不可知なるもの
彼方なるもの------

それがあなたのなかへ 入って来た
それが入ってきたのは
あなたがけっして 封じこめられたり、離ればなれになったりは していないからだ
あなたが孤島ではないからだ

あなたは〈彼方〉を 忘れてしまっているかもしれない
が、〈彼方〉は あなたのことを忘れてはいない
子は 母を 忘れてしまったかもしれないが、母は子を 忘れてはいない

部分は「私は分離している」と 考えはじめているかもしれない
だが、〈全体〉は あなたが分離していないことを 知っている
〈全体〉は すでにあなたの なかに入っている
それは依然として あなたと触れ合っている

だから、あなたが歓迎しなくても、新しいものが現われつづける
それは 毎朝やって来る
それは 毎晩やって来る
それは 千と一つの入り方で 入ってくる
あなたに見る眼があれば、それが たえず 自分のところへやって来るのが見える


神は あなたの上に降り注ぎつづけている
だが あなたは 自分の過去のなかに囲い込まれている
あなたは 一種の墓場のなかにいるようなものだ
あなたは 鈍感になっている
臆病のせいで あなたは感受性を失っている

感受性がある ということは 新しいものが感じられるということだ
新しいものに対するスリル、新しいものに対する情熱・・・・・・
そして冒険が生まれる
あなたは 未知なるものに向かって進みはじめる
自分では どこへ行くのかわからないままに------


マインドは それは気違いじみている と考える
マインドは 古いものから離れるのは合理的ではないと思う
しかし 神はつねに新しい

だから私たちは 神に 過去時制や未来時制を用いることができない
私たちは「神は存在した」とか「神は存在するだろう」とは言えない
ただ「神は存在する」と現在時制を用いることしかできない
それは つねに新鮮で 純潔だ
そしてそれは すでにあなたのなかへ入っている


憶えておきなさい
あなたのなかに入って来る新しいものは 何であれ神からのメッセージだ

それを受けいれるなら あなたは宗教的
それを拒むなら あなたは 非宗教的

新しいものを 受けいれるためには、人はもう少しくつろぐ必要がある
新しいものを 内に入れるためには、人はもう少し開放的になる必要がある

道を譲って、神があなたのなかへ 入るがままにまかせることだ

これが祈りの、あるいは瞑想の意味のすべてだ

あなたは開く
あなたは「はい」と言う、「どうぞ」と言う
「私はずっと待ちに待ってました、あなたが来てくださって感謝します」と言う
つねに大きな喜びをもって 新しいものを受けいれなさい
ときとして 新しいものがあなたに 不都合をもたらしても、それは価値がある
ときとして 新しいものがあなたを どこかの溝へ連れて行っても、それは価値がある

なぜなら、人は失敗を通してはじめて学び、困難を通してはじめて成長するからだ
新しいものは さまざまな困難をもたらす

だからあなたは 古いものを選ぶ
それはどんな困難ももたらさない
それは 慰め、庇護だ
そしてただ 新しいものだけが、あなたを変容させることができる
それが深く全面的に 受けいれられたならばだ------


新しいものは、あなたが自分で 生のなかに持ちこむことはできない
新しいものは 来 る のだ
あなたは それを 受けいれるか拒むかの どちらかだ

もし拒んだら、あなたは閉じて死んでいる石のままでいる
もし受けいれたら、あなたは 一輪の花になる
あなたは開花しはじめる・・・・・・
そしてその開花のなかに〈祝祭〉がある


新しいものが入って来るということだけが あなたを変容できる
ほかに変容の道はない

だが、憶えておきなさい
それは あ な た や あなたの 努 力 とは なんの関係もない

しかし、無為とは 行為をやめる ということではない

それは、あなたの 過去からくる 意志、指向、衝動なくして行為する ということだ


…③へ つづく

(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985) pp.203-208