OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

第十七章「七つの身体におけるプラーナの顕現」①

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The Manifestations of Prana in the Seven Bodies

質問
「プラーナとは何ですか? そしてそのプラーナは七つの身体においておのおのどのように顕われるのですか?」


 プラーナとは エネルギーのこと、私たちの なかにある生命エネルギー、生命のことだ。
この生命は、肉体に関してだけ言うと、入る息と 出る息というかたちで顕われる。

その二つは 対立するものだ。

ふつう「呼吸」と言うように、出息と入息は ひとつのものと みなされている。が、呼吸には 二つの極性、つまり入息と 出息がある。


 エネルギーには すべて 二つの対立する極において存在している。
ほかのかたちでは存在できない。
ちょうど磁石の両極のように、その対極どうしの緊張と調和(ハーモニー)によって エネルギーが生じる。


 入息は出息に まったく相反するものであり、出息は入息と 正反対のものだ。
ほんの 一瞬のことだが、入息は 誕生のようなものであり、出息は 死のようなものだ。
ほんの一瞬のうち 二つの正反対のことが 起こっている。

息を 吸い入れるとき あなたは生まれ、息を 吐き出すとき あなたは死ぬ。
ほんの一瞬のあいだに 生と死がある。
この両極性とは、上昇し下降する 生命エネルギーのことだ。


 肉体では、生命エネルギーが そういうかたちで顕われる。
生命エネルギーは、生まれて七〇年ほどのちには死ぬ。
それは 入息と出息、昼と夜という同じ現象の、より大きいものだ。

 七つの身体 (肉体、精気(エーテル)体、星気(アストラル)体、精神(メンタル)体、霊(スピリチュアル)体、宇宙(コスモス)体、涅槃(ニルヴァーナ)体)には すべて対応する「入出現象」がある。

たとえば メンタル体(精神体)だけをみても、想念が入り想念が出てゆく という現象は、入息・出息と 同じ種類の現象だ。
一瞬ごとに、心(マインド)のなかに 想念が やってきては出てゆく------。

 想念は それ自体エネルギーだ。
メンタル体では エネルギーが想念の往来として顕われ、肉体では 出入息(呼吸)として顕われる。

だからこそ、呼吸に応じて想念を変えられるのだ。
そこには 相互の対応がある。


 息を吸うのを止めたら、想念がやってくるのも止む。
肉体の息(呼吸)を止めてみなさい。
そうすると、メンタル体での想念は止む。
そして肉体が 不安定になるにつれて、メンタル体も 不安定になる。
肉体は 息を吸いたがるし、メンタル体は 想念を取り入れたがる。


 ちょうど 息が外側から取り入れられ、空気が あなたの外側に存在するように、想念の大海が あなたの外側にひろがっている。

想念は 入ってきて、出てゆく。

あなたの息が いつか私の息となりうるように、あなたの想念もまた 私の想念になりうる。
毎回 息を吐いているのと同じように、あなたは 自分の想念を投げ捨てている。
ちょうど 空気が存在するように、想念も そのように存在する。

ちょうど空気が 汚されるように、想念も汚される。
空気が 不純になるように、想念もまた不純になる。


 息それ自体は プラーナではない。
プラーナとは、中へ入ることと 外へ出ること という、その両極性によって顕われる 生命(バイタル)エネルギーのことだ。
息 を 吸 い 込 む エ ネ ル ギ ー が プラーナであって、息そのものはプラーナではない。

息を吸い込む エネルギー、息を吸い息を吐いている そのエネルギーこそプラーナなのだ。


 想念を取り入れ、想念を投げ出す エネルギー、そのエネルギーもプラーナだ。
七つの身体すべてに こういう過程(プロセス)がある。
いま私は、肉体とメンタル体についてだけ話している。
というのも、この二つは、私たちも よく知っていて理解しやすいからだ。
あなたの存在の どの層においても同じことがある。


 第二番目の身体、エーテル体にも それ自体の入ってきて 出てゆく過程がある。
あなたは このプロセスを 七つの身体それぞれに感じる。が、あなたは そのプロセスを 入息と出息のように感じる。
というのも、あなたは肉体と そのプラーナしか 知らないからだ。
だから、あなたはいつも誤解する。

 肉体以外の身体から、または そのプラーナから何か 感覚が やってくるたびにあなたはまず、それを呼吸と思い込むだろう。
それがあなたの知っている 唯一の体験だからだ。

あなたが これまでに知っているのは、プラーナのこの顕われ、生命エネルギーだけだ。
しかし、エーテル的な位相にあるのは 息でも想念でもない。
感化だ。 感化が ただ入っては 出てゆく------。


 誰か面識のなかった人と 会うとしよう。
あなたは その人と 話したこともない。 が、その人の 何かを感じる。
あなたは もうその人を 受けいれたか、放り出したかの どちらかだ。

そこには微妙な 感 化 がある。
それは 愛と呼んでもいい。 憎しみと呼んでもいい、
好感 あるいは 反感と呼んでもいい。

 反感なり好感なりを 感じるとき、それは 第二番目の身体のものだ。
たえず そのプロセスは続いていて、けっして止むことはない。

あなたはいつも いろいろな「感化」を 取り入れては放り出している。
だから、いつも もう一方の対極が 存在することになる。
たとえば 誰かを愛したばかりなのに、もう次の瞬間には あなたは嫌になり、反感をいだく。
誰かを愛したら、息を吸い込んでいる。
そうすると 今度は 息を吐き出し、あなたは嫌になる。

だから、愛の瞬間には かならず嫌悪の瞬間が 続いてやってくる。

 生命エネルギーは 両極性のなかで存在している。
けっして ひとつの極に存在するのではない。
それは ありえない!
そうしようと するときには必ず、あなたは不可能なことをやろうとしているのだ。

 あなたは ときどき憎むことなしに、誰かを愛することなどできない。
あるときには必ず その人を憎むことになる。
あなたは憎む。なぜなら、生の力は 単 極 では存在できないからだ。
それは 二つの 対極において存在する。
だから、友が敵になるのは 当然のことだ。

そして そういったことは続く。
この 出たり入ったりすることは 第七身体にいたるまで起こる。

この入ってき、出てゆく過程(プロセス)なしには どの身体も存在できない。
ちょうど肉体が、呼吸なくしては生きられないように、それは不可能だ。

 肉体に関する限り、私たちは この二つの現象を 対極のものとはみなしていない。
だから、それに かき乱されることはない。
〈生〉は 入息と出息のあいだに どんな差別もつけない。
そこには道徳的な差別はない。
何ひとつ選ばれないし、両方とも同じだ。
その現象は 自然なものなのだ。


 しかし、第二番目の身体になると、憎しみは そこに あってはならず、愛が そこに なければならない。

そのときには、あなたは選びはじめているのだ。
あなたは 選びはじめ、その選択が 動揺を生み出す。

それだから、ふつう肉体は 第二身体(エーテル体)よりも健全なのだ。

エーテル体は いつも 葛 藤 し て い る 。

道徳的な選択が、そこから「地獄」を つくり出してしまったからだ。


 あなたは、愛がやってくるときは 幸福に感じるが、憎しみがやってくると 不安に感じる。

しかし、憎しみは 必ずやってくる------。

だから、知 る 人 は、両極性というものを 理解している人は、憎しみがやってきても 失望しない。
両極性を知っている人は くつろいでいて、やすらかだ。
彼は 憎しみが必ず生じることを知っている。
だから、愛していないときに 愛そうと がんばったりはしないし、どんな憎しみも つくり出したりはしない。

 ものごとは 来てはまた去ってゆく。

その両極性を理解している人は、入ってくるものに魅きつけられもしないし、出てゆくもののために 嫌になったりもしない。
ただ 観照しているだけだ。
彼は こう言う、「それはちょうど入る息と出る息のようなものだ」

 アナパーナ・サティ・ヨーガ という仏教の瞑想法は このことと関わりがある。
この瞑想法は、自分の入息と出息に対して ただ観照者でいなさい と教える。
ただ観照者でいてごらん。

そして、肉体から始めなさい。
アナパーナ・サティ・ヨーガでは ほかの六つの身体については説かれていない。
なぜなら、その六つの身体は やがてひとりでに 現れてくるからだ。


…②に つづく-------

(Meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.315-320