OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

第十七章「七つの身体におけるプラーナの顕現」⑦

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 第七番目の身体においては、ものごとは なおいっそうむつかしくなる。

仏陀は第七身体を ニルヴァーナ・カーヤ(涅槃の身体) と呼んだ。
真理、絶対なるものは 第七身体の なかにあるからだ。


 第七番目の身体こそ 最後の身体だ。
ゆえに、そこにあるのは 創造と破壊すらない。
それどころか、そこにあるのは 存在と非在だ。

第七身体では、創造は必ず 何かほかのものの創造であって あなたのではない。
創造が ほかの何かのものなら 破壊も ほかの何かのもの (あなたのものではない) 。
だ が 一 方 、存在は あなたのものであり、非在も あなたのものだ。


 第七身体では、存在と非在------顕在と非顕在------が 二つの息だ。
そのいずれをも 自分と同一視してはいけない。

宗教はすべて、この第七身体にまで 達した人たちが創始したものだ。
そしてついに、言語は 精一杯にひろげてもせいぜい二つの言葉に尽きる。
 存在と非在------。


 仏陀は 非在の言語(出息の言語) を語る。
だから、「実体は 無 (空) だ」と言う。
一方、シャンカラは 存在の言語を語り、「ブラフマンこそ究極の実体だ」と言う。

シャンカラは 入息を選んだゆえに 肯定的な用語を使い、仏陀は 出息の方を選んだがゆえに 否定的な用語を使う。
しかし、それらは 言語に関するかぎりの選択にすぎない。


 第三の選択は 実体 (真実) だ。
そして それは 語られない。
せいぜいのところ、「絶対存在」と か 「絶対的非在」と言えるだけだ。 言えて そこまでだ。
なぜなら、第七身体は これらをも超えているからだ。
まだまだ超越が可能なのだ。


 もし外に出ても、この部屋について 何か言おうと思えば 言える。
この部屋を とび出して別の部屋に行っても、私は この部屋を 思い起こして何か言うことはできる。
が、もし部屋から外に出て 深淵のなかに 落ち込んだ としたら、そのときには この部屋についてさえ何ひとつ 言うことはできない。


 いままでのところ、どの身体にあっても 第三番目の地点を言葉にし、象徴化することができた。
なぜなら、それを超える身体が 存在したからだ。

あなたは その身体のところへ進んで、後を ふりかえることが できた。が、それが可能なのは 第七身体までだ。


第七身体を超えると 何ひとつ語られえない。
なぜなら、第七番目が 最後の身体だからだ。
それすら 超えると 無 身 体 だ!


第七身体では、存在か 非在か、つまり肯定の言語か 否定の言語か いずれかを選ばなければならない。
そこには 二つの選択しかない。

ひとつは 仏陀の選択------「何ひとつ残らない」。

いまひとつは シャンカラの選択------「すべてが残る」------。

 第七番目の次元(第七身体) では、人間に関するかぎり、そして世界に関するかぎり、生命エネルギーは 多重次元の領域のなかで 顕われる。

生命があるところ、どこへ行っても いたるところに、中に入ったり外に出たりする 課程(プロセス)がある。
生命あるところ どこでも その課程はある。

生命は この両極性なくしては 存在できない。


 それだから、プラーナとは エネルギー、宇宙エネルギーだ。

私たちははじめに、肉体の中で そのプラーナに親しむ。
プラーナは まず 息として顕われる。
それから、ほかの形態をとった息として 順々に顕われる。
感化、磁性、想念、生命、創造、そして存在------。
それは続く。

人が それに 目覚めたら、常にそれを 超越して 第三地点に達する。
その第三地点に 達した瞬間、その身体を 超越して次の身体に入る。
第一身体から、第二身体へ入る。
それから 次が続いてゆく。


 超越しつづけていって 第七身体まで来ても、そこにはまだ 依然として身体がある。
が、第七身体を超えると、そこは ( 空 (くう)) だ。

そのときには、あなたは 純粋になる。

あなたは 分裂していない。

そこにはもはや 両極性はない。

そうなったら アドヴァイタ adwait (不二)だ。

そうなったら ひ と つ だ。



(「第十七章 七つの身体におけるプラーナの顕現 )

(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.333-335