OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

第十七章「七つの身体におけるプラーナの顕現」②

f:id:OSHOuraraka0440:20150819082947j:plain

(---アナパーナ・サティ・ヨーガではほかの六つの身体については説かれていない。なぜなら、その六つの身体はやがてひとりでに現れてくるからだ---①より…)


 この肉体の両極性(同時的に死ぬことと生きること、同時に起こる誕生と死) に精通すれ ば す る ほ ど、ますます第二身体を 自覚するようになるだろう。

憎しみが 起こりそうになったときは、仏陀は こう言っている。
「ウペクシャを持て (無関心でいなさい)」

 それが憎しみであろうと 愛であろうと、無関心でいなさい。
誰にも 執着しないこと。
もし執着したら もう一方の極に何が起こるか わかるだろう?
あなたは 気を病む dis-ease 。 気を病んで (病気になって)、 気 楽 ではいられない。

 仏陀は言う、
「愛する者が来るとよろこんで迎え入れるが、その最愛の人が去ってゆくとなげき悲しむ。
嫌悪する者と会うことは苦しく悲惨であり、嫌悪する者と別れることはよろこびである。
だが、この両極性に分裂しつづけるならば、あなたは地獄にいることになる。
地獄に生きることになるだろう。」


 そういう両極性に対して ただ観照者に なったとき、あなたは こう言う、「これは自然な現象だ。
身体(七つあるなかの一つの身体)にとっては自然なことだ。
その身体は、この両極性によって存在している。
さもなければ、存在することはできないのだ。」

 それに気づいた 瞬間、あなたは 身体を超越する。
第一番目の身体を 超越したとき、第二番目の身体に気づき、第二番目の身体を超越したとき、第三番目の身体に気づく------。


 観照は必ず 生と死を超えたところにある。
入息と出息は 二つの別のものだが、観照者になったら あなたは そのどちらでもない。
そのときには、第三の力が 存在のなかへ入ってきたのだ。
そうなるとあなたは、肉体におけるプラーナの顕われではない。
いまやあなたが プラーナそのものなのだ。
あなたが 観照者なのだ。


 いまやあなたは、生は この両極性ゆえに肉体的レベルに顕われ この両極性が消えたら肉体はなくなる ということ、そうなったら 肉体は在りえない ということを理解する。

存在するには緊張が必要だ。
入ることと出ることの この絶えざる緊張、誕生と死という この絶えざる緊張が必要だ。
肉体は この緊張のおかげで 存在している。
それは たえず二つの極のあいだを動く。
さもなければ それは存在しなかっただろう。


 第二番目の身体では、愛と憎しみが 基本的な両極性だ。
それは 実に多くのかたちで現れる。
基本的な両極性は この「好き」と「嫌い」だが、瞬間ごとに「好き」は「嫌い」になり「嫌い」は「好き」になる。 瞬間ごとにだ!

 だが あなたには けっして それがわからない。
「好き」が「嫌い」になるとき、もし その「嫌い」を抑圧して、いつも同じものを「好き」で通そうと 自分を だましつづけたら、あなたは自分を 二重にだましているだけだ。
だが、あるものを嫌いに なろうものなら、あなたはそれを 嫌いつづける。
あなたは、自分がそれを 好きになった瞬間を見るのを 許そうともしない。

 人は 敵には 愛を抑え、友には 憎しみを抑える。
抑圧してばかりいる!

私たちは ひとつの動き(ひとつの極)しか許さない。 が、その動きは また還ってくるから安心している。
それは もとに戻ってくる。
だから安心していられる。 が、それは 長つづきしない。
けっして継続的なものではない。
そんなことは ありえないのだ。


 生命(バイタル)エネルギーは、第二番目の身体では「好き」と「嫌い」というかたちで現れる。 が、それは ちょうど息のようなものだ。
そこには どんな違いもない。

ここ第二身体では、肉体(第一身体)で空気が媒体であると同様、感化が媒体になる。


 第二身体は 感化という大気圏のなかに生きる。
誰かに会って、それからその人を 好きになりだす という単純なものではない。
たとえ誰も来なくて 独りで部屋にいたとしても、あなたは 好きになる---嫌いになる、好きになる---嫌いになる ということをくりかえす。

ひとりで いようが違いはまったくない。
「好き」と「嫌い」とが たえまなく、交互に続くだろう。

 そういう両極性を通してこそ エーテル体が存在できる。
それは エーテル体の息だ。

それに対して 観照者になったら、あなたは ただ笑うしかない。
そのときには、敵も味方もない。
そうして、あなたは それは ただの自然現象だ ということを知る。


 第二番目の身体------好きと嫌い という両極性------に対して 気づくようになり、そしてその観照者になったとき、あなたは第三番目の身体を 知ることができる。
それは アストラル体(星気体)だ。


 ちょうどエーテル体の 感化のように、アストラル体には磁力 magnetic force がある。
その〈磁性〉magnetism が アストラル体の息だ。

たとえば、ある瞬間には あなたは力強いが、次の 瞬間 に は 無力だ。
ある瞬間は 希望に満ちているが、次の瞬間には 失望している。
そして、ある瞬間は 自信に満ちているが、次の瞬間には 自信を一切失う------。

それは 磁性が あなたのなかへ入ってくることと あなたから外へ出てゆくことだ。
神をも ものともしない瞬間があるかと思えば、影にさえ おびえる瞬間もある。

 磁力が あなたの中にあるとき(磁力が入ってきているとき)、 あなたは卓越している。
逆に 磁力 が あなたから出ていってしまったとき、あなたは 取るに足らぬ人にすぎない。

そして、それはちょうど 昼と夜のように 行きつ戻りつ交代している。
その円は まわる。 その車輪は 回転する。
だから、ナポレオンのような男でさえ 無力なときがあり、どうしょうもない臆病者でさえ勇敢なときがある。

 柔道では 相手が無力になるときを 見てとる技法がある。
そのときこそ攻撃の瞬間だ!
相手が 力に満ちているときは、あなたは負けるにきまっている。
だから、相手の磁力が 出てゆく瞬間を見てとり、そのとき攻撃しなければならない。
そして、自分の磁力が 入ってきているときに、相手があなたを攻めるよう そそのかすべきだ。

 この磁力の往来は 呼吸と一致し、対応している。
だからこそ、何か困難なことを しなければならないとき、あなたは息を 内側に保つ。
たとえば、重い石を 運ぼうと思っても、息が 出てゆくときには 持ち上げられない。
そんなことは できない!
だが、息を吸いこむとき、あるいは 息をこらえているとき、あなたには それができる。

息は 第三身体に起こっていることに 対応している。
だから、息が出てゆくときは (相手があなたをだますよう訓練されていないかぎり) 彼の磁力が出ていっている瞬間だ。
そのときこそ攻撃の機会だ!
そして これが柔道の秘訣だ。

もし、あなたが、相手が おびえて無力になるときの 秘密を知っていたら、自分より強い人でさえ あなたは打ち負かすことができる。
磁力が 出ているとき、彼が 無力になるのは当然のことだ。


 第三番目の身体は ちょうど空気のような「磁力圏」に 生きている。
まわり中に 磁力がある。

あなたは 磁力を吸いいれ、吐き出している。

その入ったり出ていったりしている 磁力に気づいたとき、あなたは 強力でも 無力でもない。
その 両方を 超越している。

…③に つづきます。

(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.320-324