OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

…「瞑想の本質的な核心・・・」②

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P.46~

〈気づき〉の 第一歩は、肉体に注意することだ。
徐々に、それぞれの仕草、それぞれの動作に 油断なく醒めてくる。

そして 気づくにつれて、奇跡が起こりはじめる。
以前していた多くのことが 単純に消え失せる。

体は 一層くつろぎ、ますます調和してくる。
深い平和が 体のなかにひろがりはじめる。
妙なる音楽が 体のなかで脈打つようになる。


 そうなったら、思考に 気づきはじめなさい。
同じことが 思考にも為されなければならない。

それは 肉体より微妙で、もちろん、より危険でもある。
思考に気づくようになれば、自分の内側で 起きていることに驚くだろう。
いつでもいいから、起きていることを 書きとめてみれば、人は非常な驚きに見舞われるだろう。

それが、自分の内側で 起きていることだとは 信じられない。


 そして、十分後に 読んでごらん。
内側に 狂ったマインド(思考、想念)を見るだろう。

私たちが 気づいていないため、この狂気全体が 潮流のように流れつづける。

それは、何をしていようと影響を及ぼす。
何もしていなくても 影響を及ぼす。
それは、あらゆることに 影響を及ぼす。


 その総計が あなたの人生だ。
だから、この狂人が 変容されなければならない。

そして〈気づき〉の奇跡とは、ただ気づくこと以外には 何もいらないというところにある。


 まさに「見守る」という現象が、それを変える。
徐々に 狂人は消え、ゆっくりと、思考が 一定の型のなかに 落ちつきはじめる。
もはや 混沌はない。
それは 秩序あるものとなる。
そうなれば、再び、より深い平安に包まれる。

そして 体と心が くつろいでいるとき、人はそれらが協調し合っていることを知る。
そこには 橋がある。
いまや、体と心は 別方向に走っていない。
それらは 別々な馬に乗ってはいない。
そうして、はじめて、そこには 調和がある。

そして、この調和は 計り知れないほど 第三ステップへの働きかけを助ける。

それは、自分の感覚、感情、気分に 気づくようになることだ。


 それは もっとも微妙な層で、もっとも困難だ。
だが 思考に気づけるようになれば、もう一歩だ。

もう少し 強烈な〈気づき〉がいる。
そうなれば、自分の気分、感情、感覚を反映しはじめる。

ひとたび この三つすべてに 気づけば、それらはすべて ひとつの現象のなかに連結される。
そして、この三つが 全体として ひとつであるとき-------完璧に共に機能し、共にハミングしていれば、この三つすべての音楽が 感じられる。
それは オーケストラとなる。

そのとき、「第四のもの」が 起こる。

あなたが 為すことはできない。
それは、ひとりでに起こる。
それは 全体からの贈り物であり、この三つを 済ませた者に対する 恩恵だ。

「第四のもの」とは、人を覚醒させる 究極の〈気づき〉だ。
人は〈気づき〉に対して 気づくようになる。
それが「第四のもの」だ。

それは 人をブッダ-------覚者-------にする。
その 覚醒のなかでのみ、人は 至福のなんたるかを 知ることになる。


 肉体は 快感を知り、マインドは 幸福を知り、「第四のもの」は 至福を知る。
至福が サニヤス-------探求者たること-------の目的地であり、〈気づき〉が そこへ至る道だ。


 注意深く、見守ることを忘れない。
見守って-------見守って-------見守っていることが 大切なのだ。

しだいに、「見守る者」が より固定し、定着し、不動になり、そして 変容が起こる。
見守っていたものごとが 消え失せる。


 そのとき はじめて、「見守る者」自身が 見られるものとなる、観察者自身が 観察されるものとなる。

あなたは、我が家に 辿り着いたのだ。

Osho.

(meditation.first and last freedom 1988.スワミ・デヴァ・マジュヌ訳者 1993) pp.46-48