瞑想とは「観照 すなわち目撃すること」なのです。
…それは 自分自身を あるがままに見て、受け入れるという、単純だけれども 深遠な境地です。
和尚は言います。
「観照とは、何ものにもとらわれない、超然とした、偏見のない観察という意味にほかならない。
それが瞑想の秘密の核心だ」
それは、あまりにも単純すぎて、かえって何年にもわたって見のがしつづけてきたのでしょう。
私たちはみな、「見守る」とは何かを知っていると 思い込んでいます。
私たちは、一日中 自分のまわりを見ています。
たとえば、私たちは テレビを見ています。
あるいは、他人が通るのを見ながら、何を着ているか、外見はどうかなどは見守りますが、ふつう、自分自身を見守ることはありません。
たまに自分を見るときがあっても、それは たいてい自意識の批評を通して行われます。
自分の嫌いなところに気づき、他人が どう思うか気になりはじめるのです。
通常、この内心の お喋りは自分を みじめにさせるだけです。
これは 観照ではありません。
和尚は 私たちにこう注意をうながします。
「何ひとつ為される必要はない。
ただマインドの動きを見ている目撃者、観察者、観照者でありなさい。
マインドのなかでは、思考、欲望、記憶、夢、空想などが通り過ぎてゆく。
判断を下さず、非難せず、『これは良い』とか『これは悪い』とか言うこともなく、ただ眺め、見守り、超然と立ち、冷静でありなさい」
(meditation.the first and last freedom 1988.スワミ・デヴァ・マジュヌ訳者 1993) pp.26-27