OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

瞑想とは「観照 すなわち目撃すること」なのです。

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…それは 自分自身を あるがままに見て、受け入れるという、単純だけれども 深遠な境地です。

和尚は言います。

「観照とは、何ものにもとらわれない、超然とした、偏見のない観察という意味にほかならない。
それが瞑想の秘密の核心だ」

 それは、あまりにも単純すぎて、かえって何年にもわたって見のがしつづけてきたのでしょう。
私たちはみな、「見守る」とは何かを知っていると 思い込んでいます。

私たちは、一日中 自分のまわりを見ています。
たとえば、私たちは テレビを見ています。
あるいは、他人が通るのを見ながら、何を着ているか、外見はどうかなどは見守りますが、ふつう、自分自身を見守ることはありません。

たまに自分を見るときがあっても、それは たいてい自意識の批評を通して行われます。

自分の嫌いなところに気づき、他人が どう思うか気になりはじめるのです。
通常、この内心の お喋りは自分を みじめにさせるだけです。

これは 観照ではありません。

和尚は 私たちにこう注意をうながします。

「何ひとつ為される必要はない。
ただマインドの動きを見ている目撃者、観察者、観照者でありなさい。
マインドのなかでは、思考、欲望、記憶、夢、空想などが通り過ぎてゆく。
判断を下さず、非難せず、『これは良い』とか『これは悪い』とか言うこともなく、ただ眺め、見守り、超然と立ち、冷静でありなさい」


(meditation.the first and last freedom 1988.スワミ・デヴァ・マジュヌ訳者 1993) pp.26-27