OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

…「あなたは 体験ではない・・・」

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P.98~

「あなたは体験ではない」

 覚えておくべき もっとも基本的なことのひとつは------あなただけでなく、あらゆる人にとって------内なる旅で 出会うものは、どれも自分ではない ということだ。


 あなたは、それを 目撃する者だ。

それは、空(くう)であるかもしれない、至福であるかもしれない、静寂であるかもしれない。
しかし、覚えておくべきことが ひとつある。

体験が どれほど素晴らしく、魅力的であろうとも、それは 自分ではない、ということだ。

あなたは それを 体験している者だ。

そして、さらに先に 進みつづければ、旅の究極には 体験するものが何もない という地点がやってくる------静寂も、至福も、空(くう)も。
対象は 何もなく、そこには〈主体〉があるばかりだ。


 鏡は からっぽだ。
それは 何も映し出していない。
それが〈あなた〉だ。

内なる世界の 偉大なる旅人たちでさえ、素晴らしい体験に はまり込み、「私は自分自身を知った」と思い、その体験と自分を 同一視してしまっている。

彼らは、体験全体が消える最終段階に達するまえに 立ち止まってしまったのだ。


 光明を得る ということは 体験ではない。

それは 自分が絶対的に独りであり、知るべきものは 何もないという状態だ。
対象は------いかに素晴らしかろうと------存在しない。

そのときはじめて、対象に乱されない意識は 方向を変えて、その本源に至る。


 それが〈自己認識〉となる。
それが〈光明〉となる。


 対象(オブジェクト)という言葉を思い起こさなければならない。
あらゆる対象は妨害だ。
まさに言葉そのものが 妨害、障害(オブジェクション)を意味している。


 対象は 自分の外側、物質的世界にも、自分の内側、心理的世界にもありうる。
また、ハート、感覚、感情、情緒、気分のなかにもありうるし、霊的世界のなかにすらありうる。

人は それに感極まって、それ以上のものがあるとは 想像もつかないほどだ。
世界中の 多くの神秘家が〈法悦〉で 立ち止まった。

それは 美しい景勝地だが、まだ 我が家に辿り着いたわけではない。


 体験も対象もない という地点に到達すると、障害物のない意識は円状に動く。
存在においては、妨害がなければ あらゆるものが円状に動く。
それは、あなたの本性と同じ本源からやってきて、一巡する。
そして、そこに 何の障害物もない------何の体験もなく、何の対象もない------ことを見つけて、逆戻りする。

主体そのものが 対象となる。


 これが、クリシュナムルティが生涯 言いつづけてきたことだ。

観察者が 観察されるものとなるとき、ようやく到達したのだと知りなさい。
その過程には無数のことがある。
肉体は 独自の体験をもたらす。

それは、各センターにおける クンダリーニ体験として知られている。
七つのセンターは 七つの蓮華となる。
上へゆくほど優れ、高貴で、その芳香は 酔わせるものがある。

精神作用(マインド)は、無限で、無尽蔵の 偉大な空間をもたらす。
しかし、それでも、本当の我が家には まだ帰っていない という言葉を 覚えておきなさい。


 旅を楽しみなさい。
旅の途中で出会う 全風景を楽しみなさい------樹々、山々、花、川、太陽や、月や、星。

だが、主体そのものが 対象とならないかぎり 立ち止まってはならない。
観察者が観察されるものであり、知る者が知られるものであり、見る者が見られるものであるとき、はじめて我が家に辿り着いたのだ。

この家こそ、幾生にもわたって探し求めてきた 真の寺院だ。

だが、人は 道を踏みはずす。
そして、素晴らしい体験に満足してしまう。

 勇敢なる探求者は この素晴らしい体験すべてを超えて、進みつづけねばならない。

すべての体験が 尽き果てて、ただ自分自身だけが〈独り在ること〉のなかに とどまるとき・・・どのような法悦もそれほど大きくはない、どんな至福の状態も それほど至福に満ちてはいない、どんな真理も それほど真実ではない。

あなたは、私が〈神性〉と呼ぶもののなかに入っている。
あなたは ひとりの〈神〉になっている。

…(略)

(meditation.the first and last freedom 1988.スワミ・デヴァ・マジュヌ訳者 1993) pp.98-100