OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

…「瞑想の本質的な核心・・・」①

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P.46~

 瞑想の 本質的な核心、その真髄は、いかに観照するかを学ぶことにある。

 カラスが鳴く-------あなたは聴いている。
ここには 二つのもの、主体と客体がある。
だが、そこに両者を見ている 観照者が見えないだろうか。

カラス、聴く者、なおかつ その両者を見守る誰かがいる。
これは 非常に単純な現象だ。

あなたは 木を見ている。
あなたがいて、木がある。
だが、もうひとつ 発見できないだろうか。

自分が木を見ていることを、そしてまた、木を見ている自分を 見ている観照者が、あなたのなかにいることを・・・。


 見守ること、観照することが瞑想だ。

何を見守るかは 問題ではない。
木を 見守ってもよい。
河を 見守ってもよい。
雲を 見守ってもよい。
子供たちが遊ぶのを 見守ってもよい。

見守ることが 瞑想なのだ。
何を見守るかは 要点ではない。
対象は 問題ではない。

観察の質、気づき、油断なく醒めている という質-------これが瞑想だ。


 いいかね。瞑想とは、醒めて気づくことだ。
気づきながら することは 何であれ 瞑想だ。

行為が問題なのではなく、行為に持ち込む質が問題なのだ。
油断なく 醒めて歩けば、歩くことが 瞑想となる。
油断なく 醒めて坐れば、坐ることが 瞑想となる。
〈気づき〉をもって聴けば、鳥のさえずりを聴くことが 瞑想となる。

油断なく醒め、注意深ければ、心の内なる騒音を聴くことが 瞑想となる。

そのポイントのすべては「眠りのなかで動くべきではない」ということだ。
そうなれば、何をしようと瞑想になる。

②に つづく

(meditation.the first and last freedom 1988.スワミ・デヴァ・マジュヌ訳者 1993) p.46