OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」②

【あるがまま】②
(…そのノーマインドの状態こそ如性と呼ばれるものだ)


仏陀は言う
如来】は【真の如性】と同義である


同義・・・
つまり、如性という質を持っているのではない
如来が【如性】なのだ

そして 仏陀は言う
 如来(タターガタ)は 現実(リアリティ)に従って語る


彼はそれ以外の方法では語れない
彼が現実(リアリティ)に従って語ることを 選択するというわけではない
選択は いっさいない
なんであれ現実であるものが 彼を通して語られる

それは彼が こう選択するということではない
「これが現実だ、私は これを語らなければならない
 あれは現実ではない、私は あれは語らない」
・・・そういう選択が生じたら、あなたは まだブッダではない


タターガタは【無選択】から語る
だからタターガタは 真理を語る というのではない
実際のところ、それは このように言われるべきだ
「タターガタによって語られたことは 何であれ真理である」

彼は 現実に従って語る

実際のところ、現実、真実が 彼を通して語る
彼は ただ媒体、中空の竹だ
現実、真実が 彼を通して その歌をうたう
彼には 自分自身の歌は まったくない
彼の意見は すべて消え、彼自身も消えている
彼は 純粋な空間だ
真理は 彼を通って、世界のなかへ入ることができる
真理は 彼を通って、世界のなかへ降臨することができる


彼は、真理を語る
彼は、【あるがまま】・・・ヤター・ブータム・・・を語る
何であれ 実態(リアリティ)を、彼は語る
彼は それについてどんなマインドももたず、けっして干渉しない
彼は ひとつの物事も落とさず、ひとつの物事も付け加えない
彼は 鏡だ
鏡は 鏡の前に来るものは 何であれ反映する
この 反 映 性 が 如 性 だ


 スブーティよ
 【如来】は【真の如性】と同義である

なぜ彼は 真の如性と言うのか?
偽りの如性というものもあるのだろうか?
そのとおりだ
あなたは 練習することができる

あなたは如性という ある質を練習し、養成することができる
が、それは 現実にはならない
真の如性は 養成されるべきものではない
それは 来る

たとえば、「あなたは養成できる」と 私が言うとき
それは どういう意味だろう?
あなたは こう決心できる
「私は、どんな結果を招こうとも、真理のみを語る」
 たとえこの命を失わなければならないとしても、私は真理を語る」
そして あなたは真理を語るが、それは 真の如性ではない
それは あなたの決心だ
偽りが あなたのなかに湧き上がる
あなたは その偽りを抑えつけつづける
あなたは「たとえ 命が危なくなっても、私は真実であることを決心した」と言う

それは 努力だ
真実が あなたの威信になってしまっている
奥深いところでは、あなたは 殉教者になることに あこがれている
奥深いところでは、あなたは 全世界に知らせたいのだ
あなたが 真実に満ちた人間だ ということを
そのためなら 自分の命をも犠牲にする覚悟があるということを
あなたは偉大な人間、マハトマだということを・・・
そしてあなたは 自分の命を犠牲にするかもしれない
だが それは 真の如性ではない

真の如性は まったく選択を知らない
あなたは たんに真実(リアリティ)の道具だ
あなたは 介入しない
あなたは あいだに立ち入らない
あなたは あっさり身を引いた
鏡は こう決心しない
「この人は私の前に立っている
 私は、どんな結果を招こうとも、彼のほんとうの顔を彼に見せるつもりだ
 たとえ彼が 私に石を投げつけても
 ・・・というのも彼は とても醜いからだ、彼は怒りだすかもしれない・・・
 私は彼に ほんとうの顔を見せよう」

もし鏡が そんなふうに考えたら、そのときには鏡はもう鏡ではない
マインドが 入ってきている
それは 反映していない
それは 彼の決心だ
純粋性は 失われている

しかし、鏡は ただそこにあるだけで、どんなマインドももたない
ブッダも そうだ
だから仏陀は、真の如性(真如)という言葉をつかう


留意する というこの仏教の瞑想・・・
それを試してみなさい
それで遊ぶがいい
私は それを練習しなさいとは言えない
私は それで遊びなさいとしか言えない
坐りながら、歩きながら、ときどき それを想い起こしなさい
ただ それで遊ぶことだ
そうすれば あなたは驚くだろう
仏陀は、内奥の核に浸透する 最大の技法(テクニック)のひとつを世界に与えていたことに・・・

精神分析は それほど深くは行かない
それも このようなもの・・・自由連想・・・に依拠しているが、表面上にとどまっている
なぜなら、他者が 現 に 前 に いることが障害になっているからだ
精神分析医が そこに座っている
たとえ幕の後ろに座っていたとしても、あなたは 彼がそこにいることを知っている
誰かが そこにいるのを知っていること自体がじゃまをする
あなたは ほんとうの鏡になれない
なぜなら、他者の 現 前 が あなたが全面的にひらくことを許さないからだ
あなたは、あなた自身に対してしか全面的にひらくことはできない


仏陀の方法のほうが はるかに深く入ってゆく
なぜなら それは他者に対して語られるものではないからだ
あなたは ただ内側で 留意しなければならない

それは主観的でありながら 客観的でもある
その現象は 主観性のなかで起こるが、あなたは客観的なままでいなければならない

ただ気をつけなさい
それが あなたには関わり合いのないことであるかのように、留意しつづけなさい
それが あなたに起こっていないかのように
あなたが こういうことをするよう命ぜられたかのように・・・
「道のこの角に立って、何が通過しようと、ただ留意していなさい
 女性、女性、犬、犬、車、車……」
あなたは なんの関わりもなく、巻き込まれていない
あなたは まったく超然として、距離を保っている


それは、あなたを 一つのものから もう一つのものへと連れてゆくことができる
そして、あなたが 一連の連鎖の原因そのものまで達する瞬間がくる

…③に つづく

(ダイヤモンド・スートラ 1979.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985)pp.675-681