OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第11章

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【あるがまま】①

「ダイヤモンド・スートラ」より抜粋…
…(略)…
如来は現実に従って語り
 真理を語り
【あるがまま】を語る
 それ以外のものは語らない」
「スブーティよ
如来】は【真の如性】と同義である」


如性という言葉は
現実(リアリティ)へ向かう仏陀のアプローチにおいて きわめて重要だ

如性を表わす仏教徒の言葉は、tathata(タタター)だ
それは
「物事が そのようにあるのを見て、どんな態度もとらず
 どんな意見も持たず、判断したり批難しない」ことを意味する

仏教の瞑想は如性から成っている
その方法は きわめて実際的で、きわめて深く進む
仏陀は 弟子たちに言った
「物事を、干渉することなく、ただ あるがままに見つめよ」

たとえば、あなたは頭痛をもっている
あなたが それに気づいた瞬間、ただちに【意見】が入ってくる
「これはよくない
 なぜ私は頭痛にかかるのか?
 頭痛にならないためには どうしたらいいのか?」
あなたは たちまち心配する
あなたは 意見をもった
あなたは 頭痛に反対する
あなたは それを抑圧しはじめた
あなたは、それをアスピリンや ノヴァジンを使って化学的に抑圧するか あるいは意識のなかで それを抑圧するか、いずれかだ

いずれにしても あなたは それを直視しないで、脇へ置く
あなたは 何かほかのものに没頭する
あなたは、頭痛を忘れられるように、何かほかのもので気分をまぎらわしたい
しかし、あなたは両方のやり方で如性を見のがしている


仏陀はどう示唆するだろう?
仏陀は「頭痛、頭痛」と二回留意せよ、と言う
友好的でもなく敵対的でもなく、それに対する感情を もたないことだ
それが あなたとは なんの関係もないかのように
「頭痛、頭痛」と、ただ たんに留意することだ
意見を いっさいもたず、それに掻き乱されず、気を散らされず
影響されないままでいることだ

その要点を見るがいい
ただちに、頭痛の 90パーセントは去る
というのも頭痛は ほんとうの頭痛ではないからだ
その90パーセントは 敵対的な意見から生じる
たちまち あなたは その大部分はもうそこにないことがわかる

そして もうひとつのことに気づく
遅かれ早かれ、あなたは 頭痛が何かほかのもののなかに消えつつあるのを見る
たぶん今度は あなたは 怒りを感じているだろう
何が起こったのか?

もし頭痛を抑圧したら
あなたは けっしてその真のメッセージは何か知るには至らない
頭痛は、あなたがこの瞬間 怒りに満ちていることを示すものとして そこにあっただけだ
そして その怒りが 頭のなかに緊張を生み出している
かくして頭痛が起こる

しかし、あなたは 見まもった
あなたは たんにそれに留意した
「頭痛、頭痛」と・・・
あなたは 片寄らず、客観的なままに とどまった
そうなったら頭痛は消える
その頭痛はあなたに「私は頭痛ではない、怒りだ」というメッセージを与える


さて、仏陀は 再び留意せよと言う
「怒り、怒り」・・・
今度は 怒りに対して怒らないことだ
さもなければ あなたは再び罠にかかり、【あるがまま】を見のがす
もしあなたが「怒り、怒り」と言えば、ただちに怒りの 90パーセントは消える
これは 非常に実際的な方法だ

そして、残された 10パーセントが そのメッセージを放つ
あなたは それが怒りではなく、自我だということを 見るに至るだろう
再び留意しなさい
「自我(エゴ)、自我(エゴ)」・・・等々


一つのものは もう一つのものにつながっている
そして より深く進めば進むほど、それだけ あなたは根源的な原因に近づく

ひとたび根源的な原因に到達したら、その連鎖は破れる
そこから先は 何もない
あなたが その連鎖の 最後の環に留意する瞬間がくる
そうなったら【無】だ
そうなったら あなたは全連鎖から開放され、大いなる純粋性、大いなる静寂が起こる
その静寂が、如性と呼ばれる

これは たえず実行されなければならない
ときどき忘れ、無意識的、機械的に意見を出してしまうかもしれない
そのときには「意見、意見」と再び想い起こしなさい、と仏陀は言う

自分は意見をつくった というそのことに気をとられてはいけない
自分は 失敗してしまったと 意気消沈してはいけない
ただ「意見、意見」と留意することだ
そうすれば 突然あなたは見る
意見の 90パーセントは去り、残っているのは 10パーセントだということを
そして それがそのメッセージを あなたに伝えているということを・・・

そのメッセージとは何か?
そのメッセージは ある抑制、ある禁制(タブー)があり、その禁制(タブー)から意見が生じたということだ
性欲がマインドのなかに生じると、たちまちあなたは「これは悪い」と言う
これは「意見」だ
なぜ それが悪いのか?
それは悪いもの、タブーだと教えこまれてきているからだ
「タブー、タブー」と留意しなさい
そして 進みなさい


ときとして こういうことも起こる
あなたは 判断した
判断したばかりでなく、意見をつくった
意見をつくったばかりではなく、「自分は失敗した」と憂鬱になる
そうなったら、「憂鬱、憂鬱」と再び留意しなさい
そうして続けてゆくのだ


気づいたときはいつでも、どんな時点であろうと、その時点から留意するがいい
・・・ただ たんなる留意だ・・・
そして ことの全体から離れるがいい

そうすれば まもなく、もつれたマインドが もう以前ほどには もつれていないのが見える
物事が消えはじめる
そして如性、タタターの瞬間が来る
そのときあなたは ただそこにいて、【存在】もそこにある
そしてあなたと【存在】のあいだには どんな意見もない
すべてが思考によって かき乱されず、思考によって 汚されない
【存在】はある
だが マインドは 消えてしまっている

そのノーマインドの状態こそ如性と呼ばれるものだ

②に つづく

(ダイヤモンド・スートラ 1979.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985)pp.667-675