OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

第二章 / 行為を通しての無為 Non-Doing Through Doing (01)

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 瞑想は 常に 受動的だ。
その本質そのものが 受動的なのだ。

瞑想は その本性そのものが無為だから、能動的ではありえない。
何か を 行なおうものなら、まさに その行為が ことの全体をかき乱す。
あなたの行為そのもの、能動性 (活動) そのものが ことをかき乱すもとなのだ。


 無為とは瞑想のこと。
ただし、私が「無為は瞑想だ」と言っても、あなたが何もしなくてもいい ということではない。
その無為を達成するためにすら、人は いろいろなことを行わなければならない。
だが その行為は 瞑想ではない。

それは単なる 踏み石、単なる跳躍台だ。
行為は すべて ただの跳躍台であって、瞑想ではない------。


 あなたは いま ちょうど扉のところ、階段口のところにいる。------。
その扉とは 無為のこと。だが、その無為の心境に達するには たくさん やらなければならないことがある。
ただし、その行為を 瞑想と混同してはいけない。


 生命エネルギーは 相反して はたらく。
生は ひとつの弁証法として 存在している。
それは 単一運動ではない。
一本の河のように 流れているわけではない。
それは 弁証法的なのだ。

ひとつひとつの 動きにともなって、生は それぞれの逆も またつくり出す。
そして その逆との葛藤を通じて 前に進んでゆく。

それぞれの新しい動きにともなって、その動きの主題(テーゼ)は 対照(アンチテーゼ)、逆を生む。
そして これがたえまなく続けられる。

ひとつのことが その逆の対照を もたらし、融合して ひとつの統合を生み出す。
そして それがまた 新しく ひとつの主題となる------。
と、またまた その逆の対照があらわれる------。


 弁証法的な動き ということで 私が意味したいのは、それは 単純な直線的な動きではない と い う ことだ。

それは 自分自身を分裂させ、逆のものを生み出し、ふたたび その逆に出会う------そしてまた分裂して 逆を生み出してゆく動きだ。

それと同じことが 瞑想にも あてはまる。
なぜなら、瞑想は 生のなかで最も深遠なものだからだ------。


 仮に私が あなたに「ただ くつろいでごらん」と言っても それは無理な話だ。
というのも、あなたは何をやっていいか わからないからだ。
くつろぐことを教える 数多くのにせ教師たちは こう言いつづけている、「ただくつろぎなさい。なんにも やってはいけない。
ただ緊張をほぐしなさい。」

そうしたら 何をすればいい?

ただ横にたわることはできる。が、そんなことは くつろぎではない。
依然として 内なるざわめきが そっくり残っている。
そして今度は 新たな葛藤が生じる。

くつろぐのだ という葛藤が------。
いわば「おまけ」が追加された という次第だ。
「くつろげ」という おまけが付け 加 えられたというだけで、あのナンセンス、あの騒ぎは そっくりそこにある。

今度は これまでの緊張すべてに加えて、新しい緊張が追加されている。


 そんなわけで、緊張をほぐした生活をしようとしている人 というのは、あらゆる人のなかでも 最も緊張している人だ。

そういう人は 生という弁証法的な流れを 理解していないから そういう羽目になる。
その人は 生は直線的な流れだ と思っている。
ただくつろげ と自分に言い聞かせれば くつろげるだろう、というふうに思っているのだ。


 そんなことは 不可能だ!
だから、私のところへ来たら、けっして ただくつろげとは教えない。

まず 緊張してごらん。
できるだけ 緊張しきってみなさい。
完全に 緊張しなさい!
まず あなたの全身を 緊張させること。

そして あらんかぎり極限まで緊張しつづけてごらん。
そうすれば突然、あなたは くつろぎはじめるを感じる。
あなたは自分にできることは 何でもやってしまった。
だから今度は 生命エネルギーが 逆のものを生み出すのだ。


 あなたは 緊張の頂点にまで のぼりつめた。
もうこれ以上の緊張はない。
あなたは 先へ進めない。
全エネルギーが緊張するのに ついやされた。

だが この緊張を無限に続けることはできない。
それは 消え去らなければならない。
まもなく それは消えはじめる。
それを 見守るがいい。


 緊張を通じて あなたは瀬戸際に、飛躍点にまで達した。
だからあなたは 緊張を続けられない。
それ以上 続けようものなら、あなたは すっかり燃え尽きて、死ぬかもしれない。
極点に達したのだ。

そうすると今度は 生命エネルギーは おのずとくつろぐ。


 生命エネルギーが くつろぐ------。
さあ、醒めて、このくつろぎが始まるのを 見てごらん。

両手両足、体の各筋肉、体の各神経が、あなたの方から 何をするでもなく、ただ すなおに くつろいでゆく。

あなたが くつろがせようと 何かやってるわけではない。
体自身が くつろいでゆくのだ。
あなたは 体中の さまざまな個所が くつろいでゆくのを 感じはじめる。

全身が、くつろいでいる部分の集合になる。
ただ 醒めているがいい。


 この覚醒が 瞑想だ。
それは無為だ。
あなたは 何を やってるわけでもない。
なぜなら、醒める ということは 行為ではないのだから------。

それは全然 行為などではない。
それは あなたの本性、あなたの存在に 生来そなわっている本質そのもの。

あ な た が 覚醒そのものだ。

が、あなたが達成してきたのは その 無覚醒だ。
しかも あなたは たいへんな努力をして それを達成してきている。


 したがって、私にとって 瞑想には 二つの段階がある。
第一は 能動的な段階 (これはほんとうの瞑想ではない)。
第二は 完全に非能動的な段階 (真の瞑想たる受動的覚醒)。


 覚醒は 常に 受動的だ。
能動的になるが早いか、あなたは覚醒を 失う。

能動的で 同時に醒めていることができるのは 次のときだけだ。
つまり、もう 覚醒を達成したり、知ったり、感じたりするための瞑想は 必要ないという時点に あなたの覚醒が至ったときだけだ。


 瞑想が役に立たなくなったとき、あなたは あっさり瞑想を投げ棄てる。
いまやあなたは 醒めている。

そうなったときはじめて、醒めていて 同時に能動的でありうるのだ。
さもなければ そういうことはありえない。
まだ瞑想が 必要なうちは、活動中 醒めていることなどできない。
だが、瞑想すら必要でなくなったときは・・・・・・。


 あなたが 瞑想 そのものになったら、もはや瞑想の必要はない。
そうなったら あなたは 能 動 的 に なれる。
ただ、その能動性のなかにあっても あなたは常に 受動的な傍観者だ。

もう行為者では なくなっている。

あなたは常に 観照する意識として在る。


…(02)へ 続きます・・・。

(meditation the art of ecstasy 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1981) pp.53-57