OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第四章 FROM THE BEYOND〈彼方〉から / ⑤

 ( あなたは意識だ、記憶ではない 記憶は意識のなかの中身だ あなたは意識そのものだ )
 
たとえば、あなたは 誰かが道路の上を歩いているのを 見る
あなたは その顔は思い出すが 名前は思い出せない

もしあなたが 記憶だとしたら、その名前も憶えていなければならない

だがあなたは「私は その顔はわかるが、名前は憶えていない」と言う
そこで、あなたは 自分の記憶のなかをさぐりはじめる
あなたは 自分の記憶のなかへ入って行って、あっちこっち覗く
すると、突然、名前が湧き上がってきて、あなたは言う
「そう、これが彼の名前だ」

記憶は あなたの記録だ
あなたは その 記録を見ている当の者だ、記憶そのものではない


何かを 思い出そうと 緊張しすぎたら
それを思い出すのが むつかしくなるということが しばしば起こる
なぜなら あなたの 存在の上にかかるその緊張、その圧力は
記憶が 情報をあなたに放出することを許さないからだ
あなたは 何度もある人の名前を思い出そうとするが、それは 出てこない
それはもう 舌の先まで出かかっていると言うのに------

あなたは 知っていることは知っている
それでも その名前が出てこない

さて これは不思議だ

もしあなたが 記憶だとしたら、あなたを じゃましているのは誰か?
どうして 名前が出て来ないのか?
そして「私は知ってる、なのにそれが出てこない」と言うこの者は誰か?

そうしてあなたは がんばろうとする
がんばろうとすればするほど、ますますそれは むつかしくなる

それから、ことの全体にうんざりして あなたは庭に散歩に出る
すると、バラの茂みをながめていると、突然その名前がそこにある
それが 浮かび上がる


あなたの記憶は あ な た ではない
あなたは 意識だ
記憶は その意識の中身だ

しかし記憶が自我(エゴ)の 生命エネルギーのすべてだ

記憶は もちろん古い
それは 新しいものをおそれている
新しいものは 妨害するかもしれない
新しいものは 消化できないほど やっかいなものかもしれない
新しいものは 何か問題を起こすかもしれない

あなたは 自分を転換し、再転換しなければならない
あなたは 自分を 再調整しなければならない
それは 骨が折れるようにみえる


新しくなるためには、人は 自我(エゴ)と自分を 同一視しないようにする必要がある
ひとたび 自我(エゴ)との同一視を断ったら、あなたはそれが 死ぬか生きるか気にしない
実際のところ
あなたは それが生きようと死のうと、すでに死んだも同然だと知っている

それは ひとつのメカニズムだ
それを 使いなさい
しかしそれに 使われないことだ
自我(エゴ)は たえず死をおそれている

なぜならそれは 根拠のないものだからだ
それゆえの恐怖------

自我(エゴ)は 存在からは起こらない
それは 存在から起こることはできない
なぜなら存在は 生だからだ
どうして生が死を おそれることができよう?
生は まったく死を知らない

自我(エゴ)は 根拠のないものから生じる
人工的なもの、どうにか組み合わされたもの、偽りのもの、似非なるものから生じる

それでも、人間を生き生きとさせるのは
ただそのような レットゴー、ただその死だ
自我(エゴ)において死ぬ ということは 存在のなかへ、神のなかへ誕生する ということだ
新しいものは 神からの使者だ
新しいものは 神からのメッセージだ

それは 福音だ

新しいものに 耳を傾けなさい

新しいものと 共に進みなさい

私はあなたが おそれていることを 知っている

その恐怖を ものともせず、新しいものと共に進みなさい

そうすれば あなたの生は ますます豊かになる

そしてある日、閉じこめられた光輝を放つことができるようになる
Osho.


(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985) pp.216-220

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第四章 FROM THE BEYOND〈彼方〉から / ④

 
憶えておきなさい

ブッダは 瞬間から瞬間へ生きる
さながら大海原に湧き上がる雄大な波のように------

大いなる喜びと踊りをもって
星々にまで届こうという希望と夢をもって
その波は湧き上がる

そうしてしばらく瞬間をたわむれ、そのあと波は消える
それは また現われる
それには また別の日がある
それは 再び踊り、再び去って行く

神も またしかり------
現われては消え、また現われては消える

ブッダ意識もしかり------
瞬間ごとに それはやって来て、行為し、対応し、そして去って行く

それは再びやって来て、また去って行く
それは原子的だ
二つの瞬間のあいだに 一つの 間隙(ギャップ)がある
その間隙(ギャップ)のなかに ブッダは消える

私はあなたに ある言葉を言って、それから消える
次に、私は別の言葉を言って、そこにいる
それから私は 再び消える

私は あなたに対応し、それがすんだらもういない
対応が 再びそこにあり、そして私はもういない

その 合い間、空間、その虚空が、人を完全に新鮮に保ちつづける
なぜなら 死だけが あなたを絶対に生き生きと保つことができるからだ

あなたは 一度は死ぬ、七十年後には・・・・・・
あなたは 七十年間の ごみをためる

ブッダは 瞬間ごとに死ぬ
どんなごみも ためられてはいない
どんな ものも ためられてはいない
どんなものも けっして所有されない

だからこそ仏陀は、先日
「相(マーク)を所有することは欺く者になることである」と言ったのだ
なぜなら 所有は 過去のものだからだ
相(マーク)を 所有しないということが ブッダであるということだ


ちょっとそれを考えてごらん

一瞬一瞬が、ちょうど息のように、生じている

あなたは息を吸い、息を吐き出す

ひとつひとつの 吸う息が 生であり、ひとつひとつの吐く息が 死だ

あなたは 息を吸うたびに生まれ、息を吐くたびに死ぬ

一瞬一瞬をして生と死たらしめるがいい
そうすれば あなたは新しくなる
この新しいものは あなたの過去、意志、指向、衝動とは なんの関係もない

それは 臨機応変に行動するはずだ
それは 反応(リアクション) ではなく 対応(リスポンス)だ

過去をもとに為されたことは すべて古い
そのために人は 自分だけでは何ひとつ新しいことができない
それを 見 る ことは、古いもの、過去、自分自身と手を切ることだ

私たちにできることは ただそれだけだ
だがそれが全部だ、それがすべてだ
古いものが終わるとすぐに、新しいものが 続くかもしれないし、続かないかもしれない
それは 大した問題ではない


新しいものに対する願望そのものが 古い願望だ

そのときには 人はまったく開放的になる

新しいものを求めることさえ古い願望だ


ブッダは新しいものを求めることさえしない
何かに対して、それはこのようにあるべきだという欲望はまったくない
欲望があれば、あなたはそれを そのように管理する
あなたはそれに 自分自身を押しつける


生を 無欲に見なさい
生を どんな条件もなく見なさい
生を あるがままに見なさい
ヤター・ブータム------

そうすれば あなたはたえず蘇り、真新しくなる
それが〈復活〉の 真の意味だ
もしこれを理解したら、あなたは 記憶から解放される

それは心理的な記憶だが------

記憶は死物だ
記憶は真実ではない、けっしてありえない
なぜなら 真実は つねに生き生きとしているからだ
真実は生命だ
記憶は もはやないものへの固執だ
それは 亡霊の世界に住んでいる

だが それは 私たちを包む
それは 私たちの牢獄だ
実際のところ、それは私たちだ
記憶は、「私」、自我(エゴ)と呼ばれる結び目、複合体(コンプレックス)を創り出す

そして当然「私」というこの偽りの実体は たえず死をおそれている
あなたが 新しいものをおそれるのはそのためだ


この「私」が おそれている、ほんとうの あなたではない
存在(ビーイング)は 恐怖をもたない
だが自我(エゴ)は 恐怖をもつ
なぜなら自我(エゴ)は 死ぬことを非常におそれているからだ

自我(エゴ)は 人工的なもの、かってにつくられたもの、組 み 合 わ さ れ た も の だ
それは いつでもばらばらになりうる
そして新しいものが入ってくるとき、恐怖がある
自我(エゴ)は おそれる
ばらばらになるかもしれないからだ

それは どうにか自分を繋ぎ合わせよう、自分を ひとつの塊に保とうとしてきた
そしていまや 何か新しいものがやって来ている
それは めちゃめちゃにするものだ
だからあなたは 新しいものを 喜びをもって受けいれない

自我(エゴ)は 自分が死ぬのを 喜びをもって受けいれることはできない

どうして自我(エゴ)に、自分自身の死を喜んで 受けいれることができよう?

自分は自我(エゴ)ではない ということを理解しないかぎり
あなたは 新しいものを受けいれることはできない

ひとたびあなたが このことを見たら・・・・・・
自我(エゴ)はあなたの 過去の記憶で、それ以上の何ものでもないということ
あなたは あなたの記憶ではない ということ
記憶はちょうど 生体計算機(バイオ・コンピューター)のようなものだ ということ
それは実用的な機械、機構だ ということを------

だが あなたは それ を超えている

あなたは 意 識 だ、記憶ではない

記憶は 意識のなかの 中身だ

あなたは 意識 そのものだ


…⑤に つづく

(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985) pp.210-216

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第四章 FROM THE BEYOND〈彼方〉から / ③

 
新しいものの探求は 普通の探求ではありえない
それは 新しいもの を求める探求だからだ

あなたに どうやって それを探求できよう?

あなたは それを知らない
あなたは まだ一度も それに会ったことがない
新しいものの探求は ただ無制限な探求になる

人は知らない
人は無知の状態で 出発しなければならない
人は可能性に胸を踊らせて、子供のように無邪気に進まなければならない
しかも その可能性は無限だ


新しいものを生み出すために あなたのできることは 何もない
なぜなら、あなたのすることは何であれ 古く、過去からのものだからだ
だがそれは あなたが行為を止めなければならない ということではない
それは、あなたの 過去からくる意志、指向、衝動を抜きにして行動する ということだ
過去からくる意志、指向、衝動を いっさい抜きにして行動しなさい

それが 瞑想的に行動するということだ

自然に、起こるがままにまかせて、行動しなさい

瞬間に決定を まかせなさい


あなたは 自分の決定を押しつけない

なぜなら その決定は過去から生じるものだからだ
そしてそれは新しいものを破壊するからだ

子供のように ただ瞬間のなかに動くがいい
完全に現在の瞬間に身をまかせるがいい
そうすれば、あなたは日々、新しい開口部、新しい光、新しい洞察を見出す
そしてそれらの新しい洞察が あなたを変えつづける
そして ある日突然、あなたは 自分が一瞬一瞬新しくなっているのがわかる

古いものは もう残ってはいない
古いものはもう あなたのまわりを雲のように つきまとってはいない
あなたは 露のしずくのようだ
新鮮で 若々しい


…④へ つづく

(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985) pp.208-210

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第四章 FROM THE BEYOND〈彼方〉から / ②

 
私たちは どうすれば新しくなれるのだろう?

ひとりでに 新しくはならない

新しさは〈彼方〉から来る、神からと言ってもいい
新しさは〈存在 (イグジステンス)〉から来る
マインドは つねに古い
マインドは けっして新しくなれない
それは過去の集積だ
新しさは彼方から来る
それは神からの贈り物、彼方からのもの、そして 彼方のものだ


未知なるもの
不可知なるもの
彼方なるもの------

それがあなたのなかへ 入って来た
それが入ってきたのは
あなたがけっして 封じこめられたり、離ればなれになったりは していないからだ
あなたが孤島ではないからだ

あなたは〈彼方〉を 忘れてしまっているかもしれない
が、〈彼方〉は あなたのことを忘れてはいない
子は 母を 忘れてしまったかもしれないが、母は子を 忘れてはいない

部分は「私は分離している」と 考えはじめているかもしれない
だが、〈全体〉は あなたが分離していないことを 知っている
〈全体〉は すでにあなたの なかに入っている
それは依然として あなたと触れ合っている

だから、あなたが歓迎しなくても、新しいものが現われつづける
それは 毎朝やって来る
それは 毎晩やって来る
それは 千と一つの入り方で 入ってくる
あなたに見る眼があれば、それが たえず 自分のところへやって来るのが見える


神は あなたの上に降り注ぎつづけている
だが あなたは 自分の過去のなかに囲い込まれている
あなたは 一種の墓場のなかにいるようなものだ
あなたは 鈍感になっている
臆病のせいで あなたは感受性を失っている

感受性がある ということは 新しいものが感じられるということだ
新しいものに対するスリル、新しいものに対する情熱・・・・・・
そして冒険が生まれる
あなたは 未知なるものに向かって進みはじめる
自分では どこへ行くのかわからないままに------


マインドは それは気違いじみている と考える
マインドは 古いものから離れるのは合理的ではないと思う
しかし 神はつねに新しい

だから私たちは 神に 過去時制や未来時制を用いることができない
私たちは「神は存在した」とか「神は存在するだろう」とは言えない
ただ「神は存在する」と現在時制を用いることしかできない
それは つねに新鮮で 純潔だ
そしてそれは すでにあなたのなかへ入っている


憶えておきなさい
あなたのなかに入って来る新しいものは 何であれ神からのメッセージだ

それを受けいれるなら あなたは宗教的
それを拒むなら あなたは 非宗教的

新しいものを 受けいれるためには、人はもう少しくつろぐ必要がある
新しいものを 内に入れるためには、人はもう少し開放的になる必要がある

道を譲って、神があなたのなかへ 入るがままにまかせることだ

これが祈りの、あるいは瞑想の意味のすべてだ

あなたは開く
あなたは「はい」と言う、「どうぞ」と言う
「私はずっと待ちに待ってました、あなたが来てくださって感謝します」と言う
つねに大きな喜びをもって 新しいものを受けいれなさい
ときとして 新しいものがあなたに 不都合をもたらしても、それは価値がある
ときとして 新しいものがあなたを どこかの溝へ連れて行っても、それは価値がある

なぜなら、人は失敗を通してはじめて学び、困難を通してはじめて成長するからだ
新しいものは さまざまな困難をもたらす

だからあなたは 古いものを選ぶ
それはどんな困難ももたらさない
それは 慰め、庇護だ
そしてただ 新しいものだけが、あなたを変容させることができる
それが深く全面的に 受けいれられたならばだ------


新しいものは、あなたが自分で 生のなかに持ちこむことはできない
新しいものは 来 る のだ
あなたは それを 受けいれるか拒むかの どちらかだ

もし拒んだら、あなたは閉じて死んでいる石のままでいる
もし受けいれたら、あなたは 一輪の花になる
あなたは開花しはじめる・・・・・・
そしてその開花のなかに〈祝祭〉がある


新しいものが入って来るということだけが あなたを変容できる
ほかに変容の道はない

だが、憶えておきなさい
それは あ な た や あなたの 努 力 とは なんの関係もない

しかし、無為とは 行為をやめる ということではない

それは、あなたの 過去からくる 意志、指向、衝動なくして行為する ということだ


…③へ つづく

(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985) pp.203-208

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第四章 FROM THE BEYOND〈彼方〉から / ①

最初の質問
「何がまちがってしまったのでしょう?
人々が、大きな喜びよりもむしろ恐怖をいだいて、いやいやながらあらゆる新しいものに出会うのはなぜでしょう?」


新しいものは あ な た からは 生まれない
それは 彼 方 な る も の から来る
それは あなたの一部ではない

あなたの 全過去が危うくなっている
新しいものは あなたとは連続していない
それゆえの恐怖------

あなたは ある生き方で生きてきた
あなたは ある考えで考えてきた
あなたは 自分の信念をもとに 居心地のよい生活をつくってきた

それから 何か新しいものが ドアをノックする
いまや、あなたの過去のパターンすべてが 掻き乱されようとしている
新しいものが入るのを許したら、あなたは二度と 同じではなくなる
〈新しいもの〉が あなたを変える


それは危険だ
新しいものと いっしょだったら、どこでどうなるか わかるものではない
古いものは既知のもの、なじみぶかいものだ
あなたは 長いあいだ それと共に生きてきた
あなたはそれに親しんでいる
新しいものは なじみがない

それは友かもしれないし、敵かもしれない
誰にも わからない
それを知る すべはない
知るための 唯一の方法は それを許すことだ
それゆえに懸念や 恐れがある


そしてあなたは それを拒絶したままでいることもできない
なぜなら、古いものは あなたが求めているものを いまだ与えていないからだ
古いものは約束してきたが、その約束は まだ果たされていない
古いものは なじみはあるが惨めでもある

新しいものは 不快なものかもしれないが、可能性はある
それはあなたに 至福をもたらすかもしれない

だからあなたは それを拒むことはできないし、受けいれることもできない
それゆえに あなたは迷い、おののく
深い苦悩が あなたの存在のなかに湧き上がってくる

それは自然なことだ
何も まちがってしまったわけではない
それは いつもそのようにして存在してきた
それは これからも かならずそのようになる


新しいものの出現を 理解しようと試みなさい

この世の誰もが 新しくなることを望んでいる
古いものに満足している人は 誰もいないからだ
誰も古いものには 満足できない

それが何であれ、あなたがそれを 知ってしまっているからだ
ひとたび知ってしまったら、それは 繰り返しになる
ひとたび知ってしまったら、それは退屈になり、単調になる

あなたはそれを 取り除きたい
あなたは探検し、冒険したい
あなたは 新しくなりたい
にもかかわらず、新しいものがドアをノックするとき
あなたは しりごみし、引き下がり、古いもののなかに隠れる
これは板ばさみ(ジレンマ)だ


どうしたら新しくなれるだろう?
そして誰もが 新しくなりたがっている

勇気が必要だ
ただの勇気ではなく、ただならぬ勇気が必要だ
世界は 臆病者でいっぱいだ

だから人々は 成長するのを やめてしまった
臆病だったら どうして成長することができよう?

新しい機会が やってくるたびに、あなたはしりごみし、眼を閉じる

どうやって成長できよう?

どうやって 在 る ことができよう

あなたはただ 在 る ふりを しているだけだ

あなたは、成長できないから、成長の代用品を 見つけなければならない
あなたは成長できないが、あなたの銀行預金は「成長」することができる

それが 代用品だ

それには どんな勇気もいらない
それは あなたの臆病さに まさにうってつけだ
銀行預金が成長しはじめると、あなたは 自分が成長している と思いはじめる
あなたは前よりも 立派になる
あなたの 名前や名声が高まる

あなたは自分が 成長していると思うかね?
あなたはただ 自分をだましているだけだ

あなたの名前は あなたではない
あなたの名声も あなたではない
あなたの銀行預金は あなたの存在(ビーイング)ではない
だがその 存在のことを考えると、あなたは震えはじめる
そこでの成長を望むなら、あなたは臆病さをすべて 落とさなければならないからだ

…②に つづく

(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985) pp.199-203

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」Q&A (P.134)

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「知識は つねに危険でしょうか?」


かならずしも つねにではない

そして知識が 危険なのではなく、知ったかぶりが 危険なのだ

事実について知るのは まったくいいことだが、生の神秘を忘れるのは危険だ

だから知識は かならずしも危険ではない

ときには、それは大いに役に立つこともある



…以下略・・・

(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985) p.134