OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第四章 FROM THE BEYOND〈彼方〉から / 七番目の質問

 第七の質問 
「あなたは、私たち みんなにボーディサットヴァになってほしいと言います。
ということは、ほかの人たちが『彼岸』へ行くのを助けよう という確固たる決意をしなければならない、ということですね。
だが、わたしにはそういう決意ができるとは感じられません。
ときには他者への愛を感じることもありますが、ときには自分のことだけで忙しいこともあります。
そこで、私は待つべきでしょうか。
その決意は『宣言』のようなものではなく、むしろひとりでに熟する果実のようなものなのでしょうか。
そしてまた、なぜ仏陀はブッダであってボーディサットヴァではないのでしょうか?」


まず、これら三つのことが 理解されなければならない
ひとつは、人間の マインドの通常の状態------
あなたがこの世、此岸(しがん)に しがみついていて、彼岸(ひがん)は 架空のものにみえる状態だ

あなたは 彼岸を信じることができない
あなたが あまりに此岸に しがみついているので
唯一の問題は、どうやって あなたが執着を解くのを 助けたらいいか ということだ

サンデハ
いまは ボーディサットヴァであることを 考えはじめても役に立たない
それは 助けにならないし、危険だ
それは 此岸にしがみつく策略になるだけだ
あなたはまだ此岸から 自由になっていない

だからこれは、またこの世界への 新しい執着の仕方になる
それは 実に巧妙だ
いまやそれは 宗教、慈悲、人々への愛、奉仕という美名のもとに在るようになる

それは 偉大な観念となる
「私は人々を救うために ここにいる
私が彼岸へ行かないのは そのためなのだ」

そしてあなたは 彼岸へ行きたがらない

あなたは 彼岸が あることを知らないし、彼岸がある ということさえ信じない
いまやあなたは きわめて微妙で巧妙な 罠のなかに落ち入っている

これが ふつうのマインドの第一段階だ
この段階のマインドは 世界に執着する

そして ますます執着するための 新たな口実を さがしつづける
その執着を解くのは 非常にむつかしい


二番目の段階は ボーディサットヴァの段階------
彼岸に翔ぶ用意が できている者、もう この世界には どんな根もない者の段階だ

そういう無執着の境地に達した者の段階だ

第一段階では 執着を解くことがむつかしい
第二段階では 執着することがむつかしい


『ダイヤモンド・スートラ』は 第二段階の人達のためにある
第一段階の人達のためのものではない

まずあなたは 執着を解かなければならない
この世界のなかにある 自分の根を ことごとく破壊しなければならない
自分の根を ことごとく破壊したとき、はじめてあなたは 他者を助けることができる

さもなければ あなたは なんの役にも立たない

あなたは 何も分かち合うものを もたない

「私は人々を 愛している」と 信じつづけることはできるが、あなたにまだ愛はない
依然として あなたは 人々が 自分を愛してくれることを望んでいる

依然としてあなたは乞食のままだ

まだ理由なく 分かち合う喜びだけのために 愛を分かち合う状態には至っていない


まず 第二の段階まで行きなさい
まず あなた自身を 完全に自我(エゴ)のない状態にしなさい

この世界のなかにおろした あなたの根をみんな破壊しなさい
欲ばりにならないことだ

そのときはじめて、仏陀の言っていることが あなたにふさわしいものになる


それから次の問題が もち上がる

はじめの問題は どうやって執着を解くか ということだ
次の問題は どうやって もう少し執着するかということだ

仏陀は、あなたにどんな根もなくなったとき あなたはここで必要とされる、と言う

そのときには、あなたは 分かち合う何かを持つ

そのときには、あなたは 分かち合うダイヤモンドを持つ

そのときには、立ち去る前に 分かち合いなさい

そして できるだけ長く ここにとどまりなさい

これが 第二段階だ
第三段階は、すでに彼岸に到達したブッダの段階だ


さて、あなたは こう訊ねている
「それではなぜ仏陀はブッダであって ボーディサットヴァではないのですか?」

第三段階は さらにむつかしい
彼岸にいながら、なおかつ此岸にもいる ということは最もむつかしいことだ
彼岸にいながら、なおかつ人々を 助けつづける ということは最もむつかしいことだ


だから、これらが その三つの難問だ
第一に、此岸に対して 無執着になること
第二に、その無執着が起こったとき 此岸にとどまること
第三に、此岸に とどまることが できなくなったとき・・・・・・
・・・なぜなら此岸にとどまることが 不可能になる瞬間がきているからだ


あらゆるボーディサットヴァは ブッダにならなければならない
あなたは 此岸に しがみつくことはできない
それは 違法だ
あなたが 立ち去らなければならない時点が来る
少しのあいだくらいなら 執着することは可能だ
せいぜい 一生のあいだくらいならね

が、それ以上は 不可能だ
そうなったら、あなたは 立ち去らなければならない
一生ぐらいなら 執着できる

すべての 根は断ち切られているが
あなたには 肉体があるから、その肉体のなかに とどまることができる

だからせいぜい 一生ぐらいなら執着できる

それからあなたは 立ち去らなければならない


そして、第三の段階、ブッダの段階が来る
ブッダとは すでに立ち去っていて、それでもなお人々を 助けつづける人のことだ

だが憶えておきなさい
ボーディサットヴァであって はじめて人々を助ける第三段階に 入ることができる
さもなければ 第三段階には入れない


理解されるべき言葉が 二つある

ひとつは アルハット(阿羅漢)、いまひとつは ボーディサットヴァ(菩薩) だ

アルハットとは・・・・・・

実は その二つは 同じ境地なのだが------
彼においては世界は断ち切られ、もはや愛着はなく、自我(エゴ)は 消えている

だが、彼は ただちに彼岸へ行く

彼は アルハットと呼ばれる

彼は 他者のことは気にかけない

彼は 用意ができたら、単純に彼岸へ行く


アルハットは 彼岸から救いの手を差しのべることはできない
なぜなら彼は 助け方を知らず、これまで 一度も助ける訓練をしたことがないからだ

ボーディサットヴァも アルハットと同じ境地にいる

彼は 知った、彼は見た
彼は 真理になった

だが彼は もう少し此岸にとどまる
そして あらんかぎりの手段を尽くして 人々を助けつづける
彼は その助ける道を学んでいる


もしあなたが ボーディサットヴァになって それから彼岸へ行ったら
彼岸では アルハットもブッダになり、ボーディサットヴァもブッダになる
彼岸とは ブッダフッドの 岸辺だからだ

だが、此岸でボーディサットヴァだった者は、彼岸からも助けることができる


彼は さまざまな道や手段を見つけ出す

仏陀は 何世紀にもわたって 助けつづけている

いまでも、あなたが 仏陀に心をひらけば、その助けはあなたにやって来る
いまでも、情熱をこめて 仏陀を愛すれば、その助けはあなたにやって来る

彼は いまなお彼岸から呼んでいる

だが その彼岸からの呼びかけはあまりにも遠い
あなたはきわめて注意深く 耳を傾けなければならない
私に耳を傾けるよりはるかに 注意深くあらねばならない
なぜなら その声は「彼の岸辺」から やってくるからだ


遅かれ早かれ、私も行く
もし私に 注意深く耳を傾けるすべを学んだら
あなた方の多くは 彼岸にいる私を聴くことができる


ブッダは 意識の究極の状態だ
ボーディサットヴァを通過したら、あなたはこの世に対して ひらいていられる
あなたは永遠に 神への窓になる

もし ボーディサットヴァを 通過しなかったら

あなたは〈無限〉のなかに消えはするが、あなたに助けられる人は 誰ひとりいない


(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者1985) pp.236-244