OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第二章 解き放たれた愛 ①

 
 第四の質問
「すべては、この世界はオーケイなのですか?
そして、それと愛とどんな関係があるのですか?
あなたが『世界はオーケイだ』と言うとき、それは私にとってもオーケイに聞こえます。
誰かほかの人がそう言ったり、私がそう言ったりすると、それはまちがっているように聞こえます。」


それは 誰がそれを 言うかにかかっている
「世界はオーケイだ」と言うとき、私は 理論を持ち出しているのではない
ヴィジョンを 分かち合っているのだ

実際のところ
theory という言葉は ギリシャ語の theoria という語源からきている
theoria とは ヴィジョンを意味する
私があなた方に 何かを言うとき、それはマインドのものではない
私は 自分の体験を分かち合っている

そういう瞬間において
あなたが私と共にいて 私に対してひらいていれば、あなたも そのヴィジョンを得る
私のヴィジョンが、わずかながら、あなたの存在のなかに こぼれ落ちる
その瞬間「扉」が開き、あなたは言う
「そうだ、それはそうだ」


誰かほかの人が話していて、それがその人のヴィジョンではないとしたら・・・・・・

あなたでさえ 誰かにものを言うときは
そして それがあなたのヴィジョンではないときは

…それが借物の眼で 見たものでしかなかったときは…
それは 正しく聞こえない

仏陀のような人が たとえ嘘をついたとしても、それは真実のように聞こえる
そして、あなたは真実を語ったとしても、それは嘘のように聞こえる


それは、それが どこから来るかということにより多くかかっている
その源に------

何を言うかではなく、誰が 言うかだ
あなたはキリストの言葉を 繰り返しつづけることはできるが
誰もあなたを 十字架にかけようとはしない

なぜか?
なぜ彼らは あなたを十字架にかけないのか?
あなたは「山上の垂訓」全部を朗読し、立ちつづけることはできる
それこそ人々が 世界中でやっていることだ

キリスト教の司祭、宣教師、「エホバの証人」・・・・・・
あらゆるたぐいの人々が それをやっている
新約聖書を持ち歩き、新約聖書を引用し、その言葉を繰り返している
が、誰も彼らを 十字架の刑にかけない
なぜか?

イエスが これらのことを言ったとき 何が問題だったのだろう?

そのときには 言葉に 炎があった
イエスは 彼のヴィジョンを 分かち与えていた
あなたが繰り返しても、そのなかには どんなヴィジョンもない
それは たんなる言葉にすぎない
それには どんな情熱も、強烈さも、真実もない
真実は ただ体験を通してのみやって来る


あなたは「すべては、この世界はオーケイなのですか?」と問う
私が「世界はオーケイだ」と言うとき、実際には何を意味しているのだろう?

私が意味しているのは
これこそ 唯一の世界であり、ほかの世界はない、ということだ


あなたは どんなやり方でも 比較はできない
オーケイか オーケイでないかということは 筋ちがいだ

これが存在する 唯一の世界だ
ほかに どんな世界も存在しない
あなたは、それが より良いかそうでないかを比較することはできない
比較は不可能だ

比較が可能なのは 世界が二つあるときだけだ
しかしそれはない


だから私が「すべてはオーケイだ」と言うとき
それは、比較しても少しも意味がない、ということだ
しかし、なぜ人々は「これは正しい世界ではない」と言うのか?

彼らは マインドのなかに理想世界を創り出し、その理想世界と比較する
彼らは 物事は いかにあるべきかという観念をもち、何ものも正しくないようにみえる
なぜなら、物事は 彼らの理想的な観念のようではないからだ

たとえばあなたが 人は 四つの眼をもつべきだと考えていたら・・・・・・
それは非常に論理的であるようにみえる
背中にも二つの眼------
二つの眼では 正しくないようにみえる
背中はどうすればいい?
だれかが後ろからやってきて あなたを打ったらどうなる?

神は そこのところを見のがした
背中の 二つの眼を見のがした
そうなったら、ことはオーケイではない
人間は 二つの眼しか持っていない
人間は 四つの眼をもつべきだ

そうなったら突然、人間はオーケイではなくなる
そして人間は同じままだ
あなたは ある観念を生み出し、その観念が批難する


人は 七十年以上 生きるべきだ・・・・・・
なぜか?
ひとたび「人は七百年生きるべきだ」と言ったら、七十年は非常に貧弱にみえる
しかしなぜ?
七百年のあいだ ここで何をするというのだろう?
害し、破壊するのに 七十年でじゅうぶんだとは思わないかね?
あなたは 七百年も必要なのだろうか?
ちょっと想像してごらん、七百年生きているアドルフ・ヒトラーを------


ひとたびあなたが 観念や目標をもったら、そのときには物事はちがってくる

私には どんな観念もない
私は まったく非理想主義だ
私は 完全な現実主義者だ
私は 心に どんな理想ももたない
そうしたとき、こ れ が唯一の世界だ


バラは 赤い
樹々は 緑
そして 人々は このように在る
あるがままの 在り方で------
そして それは まったく美しい


「すべては、この世界はオーケイなのですか? そして、それは愛とどんな関係があるのですか?」

それは大いに 愛と関係がある
もし世界がオーケイなら、そのとき はじめてあなたは愛することができる
もし 世界がオーケイでなければ、あなたは政治家になる
あなたは 政治的になる

政治家は「世界はオーケイではない」という観念に依存している
自分は革命を 起こさなければならない
自分は物事を 変えなければならない
自分は物事を 正しく置き換えなければならない
自分は神を 改良しなければならない------

それが政治家のマインドだ
政治家に 愛はない
あるのは批難だけだ
なぜなら 彼は裁いたからだ


宗教心には どんな裁きもない
イエスは言う、「汝、裁くなかれ」
宗教心は どんな裁きも、どんな批難もしない
だからこそ 愛することができる
憶えておきなさい
あなたの生においてもそうだ
あなたは 裁かないときだけ 愛することができる
裁くべき観念がありすぎたら、あなたは けっして愛さない
あなたは 自分の観念を押しつけつづける

そして 押しつけられた人は誰であれ、あなたの「愛」とやらの犠牲になる
あなたは自分の観念を その人に押しつけつづける
子供が生まれたときでさえ、すぐその子にとびつき、操縦し、支配し、改善しはじめる

そしてその生命を だいなしにする
そうやって だれもが親や社会によって破壊されてきた


…②に つづく

(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者) pp.117-125
 
f:id:OSHOuraraka0440:20150830193159j:plain