OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

…「観察者は 観照者ではない・・・」

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P.101~

「観察者は観照者ではない」

 観察者と観察されるものは、観照者の ふたつの側面だ。

それらが 互いのなかに消え、互いのなかに溶け込み、ひとつであるとき、初めて 観照者が その全体像を表す。


 だが、多くの人びとが 疑問を抱く。
その理由は、彼らが観照者とは 観察者のことだ と考えるからだ。

彼らの マインドでは、観察者と観照者は 同義語だ。
それは まぎらわしい。
だが、観察者は 観照者ではなく、その 一部にすぎない。

そして、部分が それ自体を全体だ と考えると過ちが生じる。


 観察者は「主観」を意味し、観察されるものは「客観」を意味する。
観察者は 観察されるものとは 別の存在であり、内側のものだ。
しかし、内側と外側は 別々ではありえない。
それらは ひとつだ。
ひとつでしか ありえない。

この統一性、一体性が 体験されるとき、観照者が 現れる。


 観照者を 訓練することはできない。
観照者を 訓練しているつもりでも、それは たんに観察者を訓練しているのだ。
そして、観察者は 観照者ではない。


 それなら 何が必要か------。
溶け込むことが 必要だ。
融合することが 必要だ。

薔薇の花を 見ているときには、見られている「対象」と 見る者としての「主体」があることなど すっかり忘れなさい。

その瞬間の美しさ、その瞬間の祝福に 双方を圧倒させなさい。
そうすれば、薔薇と自分は もはや別々ではない。
ひとつのリズム、ひとつの歌、ひとつの歓喜と なっている。


 音楽を 深く味わいながら、夕日を 眺めながら、何度でも それを起こらしめなさい。
何度でも、起これば起こるほどよい。

それは 技ではなく コツだからだ。
その勘どころを 手に入れなければならない。
一度 ものにすれば、いつでも、どこでも その引き金を引くことができる。


 観照が 起こるとき、そこには観照している人もおらず、観照されるものもない。

それは 無を映し出す 純粋な鏡だ。
鏡と言うことすら 適切ではない。

それは「映し出すこと」と言ったほうが よいかもしれない。
それは、溶け込み、融合することの躍動するプロセスだ。
それは 静止した現象ではない。
流動だ。

あなたに届こうとする 薔薇、薔薇に届こうとする あなた、それは〈存在〉の 分かち合いだ。


 観照者が観察者だ という考えを忘れなさい。それらは違う。

観察者は 訓練されうる。

観照者は 偶発的だ。

観察者は 一種の集中であり、観察者は あなたを 別なものにしつづける。

観察者は 自我(エゴ)を高め、強化する。
観察者に なればなるほど、離れ小島のように、別々に、ひとり離れ、遠くにいるように感じる。

どの時代でも、世界中の修行者は 観察者を訓練している。
彼らは、それ を観照者と 呼んできたかもしれない。
だが、そうではない。

観照者とは、全面的に異なる、本質的に異なる何かだ。

観察者は 訓練され、開発される。
あなたは、それを訓練して さらに熟練した観察者となることができる。


 科学者は 観察する。 神秘家は 観照する。

科学のプロセス全体が 観察のそれだ。
非常に 鋭く、正確で、鮮明な観察。
したがって、何ひとつ見逃さない。
だが、科学者は 神を知るには至らない。

彼の観察が 非常に熟練したものであるにもかかわらず、彼は神に 気づかないままだ。
けっして神に遭遇しない。
それどころか、神の存在を否定する。

観察すればするほど------ますます存在から 離れてしまう。
橋は 崩れ、壁が立ちはだかる。
そして、自分自身の自我(エゴ)のなかに 幽閉される。


 神秘家は 観照する。 だが、覚えておきなさい。
観照とは 起こることであり、副産物だ。

あらゆる瞬間、あらゆる状況、あらゆる体験のなかで 全面的的であることからくる副産物。
全面性が 鍵であり、その全面性のなかから 観照という賜物が表れてくるのだ。

 観察のすべてを 忘れなさい。
それは、観察される対象の 正確な情報を与える。

だが、自分自身の意識は 完全に忘れたままだ。


(meditation.the first and last freedom 1988.スワミ・デヴァ・マジュヌ訳者 1993) pp.101-103