OSHOuraraka0440のブログ

「 見 と 観 (五輪の書) 」…ものごとを 部分的に見るのは、6.3.3 で教わった・・・全体的に 観る眼を 培うのは、自分への “宿題” だ・・・。

第六章「第二の質問」…どういうところから、ほかの人への思いやりが干渉になるのでしょう?

 第二の質問
「どういうところから、ほかの人への思いやりが干渉になるのでしょう」


観念が入った瞬間
思いやりは 干渉となる

愛は 苦さに変わり、一種の憎しみに近くなる
そして あなたの保護が牢獄になる
観念が そのちがいをつくる


たとえば あなたが母親なら、子供の面倒をみなさい
彼は あなたを必要としている
彼は あなた無しでは生き延びることはできない
あなたは 無くてはならないものだ

彼は 食物を必要とする
彼は 愛を、世話を必要とする

しかし あなたの観念は 必要ではない
あなたの理想は 必要ではない

彼は、あなたのキリスト教、ヒンドウ-教、イスラム教、仏教は 必要としない
彼は あなたの聖典は必要としない
彼は あなたの信仰は必要としない

彼は 彼がどうあるべきか というあなたの理想は必要としない
観念、理想、目標、目的を ちょっと避けることだ
そうすれば 面倒をみることは美しく、純真だ
さもなければ 面倒をみることは ずる賢い


あなたの世話のなかに どんな観念もないときには
あなたは 自分の子供を クリスチャンにしようとは思わない
あなたは 子供を共産主義者やファシスト、あれやこれやにしようとは思わない
あなたは 子供をビジネスマンやエンジニアになってほしいとは思わない

あなたは 子供に対してどんな考えももっていない
あなたは言う
「私は 愛そう
そして、おまえが おとなになったとき、選ぶがいい
おまえが自然に そうなるものになら 何にでもおなり
私は 祝福しよう
おまえが何であれ、私は祝福しよう」
「そして 何になろうと、私の側からは おまえは受けいれられ、歓迎されている
おまえが 国の大統領になった時だけ愛するわけではない
もし ただの大工になったら愛さないし
おまえのことを恥ずかしく思うなどということはない
おまえが大学から金賞をもらった時だけ歓迎して
失敗したら恥ずかしいということではない
おまえが いい子で、美徳や道徳、あれやこれやがある時だけ私の子供で
そうでなければ 私はおまえと無縁でおまえも私と無縁だということではない」


何かの観念を 持ち込んだ瞬間、あなたは 関係のなかに毒を持ち込む
面倒をみることは美しい
しかし、それに観念が入ると、それは狡猾さになる
そうなったら、それは取引になる
そうなったら、それは条件をもつ


そして、私たちの「愛」は みなずる賢い
だからこの世はこれほど不幸で、これほど地獄なのだ
そこに 思いやりがない というのではない
思いやりや 気づかいはある
だが、それは あまりにも狡猾さを伴っている

母親は 気をつかう
父親は 気をつかう
夫は 気をつかう
妻は 気をつかう
そして兄弟も姉妹も、みんなが 気をつかっている
私は、誰も気をつかっていないと言っているのではない
みんな 気をつかいすぎているくらいだ
が、それでもなおこの世は地獄だ


何かが まちがっている
何かが 根本的にまちがっている
その 根本的にまちがいとは何だろう?
どこで物事が まちがっているのだろう?

思いやりのなかに さまざまな条件が入っている
「これをしなさい・・・あれになりなさい・・・・・・」

あなたは 無条件に 誰かを愛したことがあるだろうか?
あなたは 誰かを あるがままに愛したことがあるだろうか?

あなたは 改善したいとは思わない
あなたは 変えたいとは思わない
あなたの受容は 全面的で完全だ
そうなったら、思いやりとは何かがわかる
あなたは その思いやりを通して満たされ、他者も大いに助かる


そして憶えておきなさい
あなたの 思いやりのなかに どんな打算も、どんな野心もなければ
あなたが 思いやりをかけたその人は 永遠にあなたを愛する
だが 思いやりのなかに 何か観念があれば
あなたが 思いやりをかけたその人は けっしてあなたを許すことはできない
だから子供たちは 自分の親を許すことができない


あなたは 精神科医や精神分析医を たずねに行く
彼らの所へくる症例はすべて、親たちが あまり思いやりをかけすぎた子供たちの症例だ
だが その思いやりは ビジネスライクだった
それは 冷たく、計算されたものだった
彼らは子供を通して 自分の野心の幾つかを 達成したかった

愛は 無料の贈り物でなければならない

その上に 値札がついた瞬間、それは もう愛ではない


(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985) pp.334-340
 
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「ボーディサットヴァフッド」Q & A (04)

 
各時代を通じて
この二十五世紀間、仏教の聖者は ひとりも 発狂しなかったことが知られている
それは まれなことだ

スーフィ教では 多くが発狂している
ヒンドウ-教では 多くが発狂している
その理由は
スーフィやヒンドウ-は ボーディサットヴァフッドに匹敵するものを持たないからだ
どんな教えも 与えられていないからだ

西洋では 問題はさらに込み入っている
キリスト教には それについての観念はまったくない
だからキリスト教では
いかなる意味でも聖者ではない凡人たちが 聖者として崇拝され
聖者である人たちが 気違いだと宣告され
あるいは 悪魔にとり憑かれたと 宣告されるということが起こってきた


西洋の 多くの精神病院で
ほんとうは狂っていないのに ボーディサットヴァの故に発狂した人々がいる

彼らは 精神医学の治療を必要としていない
彼らは 電気ショックを必要としていない
彼らは 精神安定剤を必要としていない
彼らは 不必要な拷問を必要としていない
彼らは 精神分析を必要としていない

彼らに必要なのは 彼らを包んでくれる慈悲深いブッダだけだ
ブッダの臨済------必要なのはただそれだけだ
ブッダの臨済だけが 彼らを連れ戻す
ブッダの臨済が 大いなる引力、磁力となって、彼らを 本来の意識へ連れ戻す

しかし、彼らは拷問を受けている
不必要な扱いを受けている
なぜなら 一度狂っていると思うと、あなたは彼らを 気違い扱いしはじめるからだ


仏教は 世界で最も科学的な宗教のひとつだ
それは 意識の成長に必要な地図を すべて持っている

そしてボーディサットヴァフッドは きわめて本質的だ
ブッダになる前に、人はかならずボーディサットヴァフッドを通過しなければならない

しかし、ソメンドラ、それはナンセンス nonsense だ
まさに そのとおりだ


(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985) pp.332-334
 
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「ボーディサットヴァフッド」Q & A (03)

 
ボーディサットヴァは
あまりにも多くを持つがゆえに
それを与える必要のある者だ

あまりに多くを持つがゆえに
あなたが彼の その愛、彼の その存在、彼の その〈光明〉を受けとると 感謝する者だ

彼は 芳香に満ちた花に 似ている
その芳香は 風に解き放たれたい

あるいは、彼は 雨水で一杯の雲のようなもの・・・・・・
それを歓迎し、それを吸収してくれる 渇いた大地を求めている

ボーディサットヴァもそうだ
雨水で一杯の雲・・・・・・
渇いた魂を求め、歓んで迎えてくれる誰かを求めて、四方八方へ動いている

ボーディサットヴァは あなたが彼の贈り物を受けとるとき あなたに感謝する


ボーディサットヴァフッド(菩薩の境地)は 意識のひとつの状態だ
それは たしかに「ナンセンス」だ
それは たしかに も の ではない、ソメンドラ

だが、それは起こる
それは 非常に 非論理的だ
それは 非論理的で、ばかげてみえる
それは まだあなたの体験に 関係ないからだ

しかし まもなく、あなた方の多くが その境地に入る
あなた方の多くが まさにその瀬戸際に立っているのが、私には見える
あなた方には 見えない

あなた方が瀬戸際にいて、究極の飛躍をする用意があるのが、私には見える

それが 起こったとき、あなた方は 仏陀の語っていることが何かを知る


『ダイヤモンド・スートラ』は ふつうの人に 説かれているのではない
それは サニヤシンたちにだけ説かれている
ボーディサットヴァフッドに 達しつつある者や すでに達した者たちにだけ説かれている

実際のところ
それは人が ボーディサットヴァフッドに達する前に 説かれなければならない

なぜなら そのボーディサットヴァフッドの瞬間が きたとき
もし 何をしたらいいのか わからなかったら
もし 重荷を降ろす すべがあることに 気づいていなかったら

自分の至福を 放つことができることに
それをかかえている必要はないことに 気づいていなかったら
もし それについて 何も知らなかったら

それは あなたにとって困難に、とても困難になる

あなたの 至福そのものが 胸(ハート)の苦しみに変わり、胸(ハート)の 痛みになる
ダンスや歌になるより むしろそれは 苦痛に満ちたものになる

知っているだろうか
至福があまり強烈になると、それは 苦痛になる
光があまり強烈になると、それはまぶしすぎて、あなたは 盲になりそうになる
愛が過剰であるとき、あなたは それに耐えられない
喜びが過剰であるとき、あなたの 心臓は止まりかねない
それは 大きな苦痛になりかねない


そして あなたは 何も知らない------
ボーディサットヴァフッドが 起こるとき
その喜び、その大きさは あまりにも大きく
その至福、その強烈さは あまりにも大きく
あなたは そのために 死ぬか狂うかしかない


仏教は ボーディサットヴァたちが発狂しないことで知られている 世界で唯一の伝統だ
なぜか?

スーフィ教では 彼らは発狂する
ヒンドウ-教では 彼らは発狂する
彼らの多くが 発狂する
スーフィたちは 彼らのために特別な名前をもっている
マスタス mastas------

しかし 仏陀の伝統のなかには そのようなものはない
なぜか?

仏陀は そのあらゆる可能性をよく知り、きわめて科学的に道を用意している

だから彼は、起こるはずの その瞬間のために、指示、方向づけ、示唆を与えつづける

…04に つづく

(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985) pp.329-332
 
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「ボーディサットヴァフッド」Q & A (02)

 
性は 十四歳のときに起こる
性的成熟だ
子供は 未知で新しい何かにぞくぞくする
子供は 欲望という風を得た
大きな情熱と炎が 彼のなかに湧き上がっている

彼はもう二度と その欲望以前にそこにあった 純真無垢には戻れない
彼は 二度とその純真さで物事を見ることはない



生が 自然発生的に、自然に進んだら
きっかり 死の十四年前に、その欲望は消える
きっかり 死の十四年前に、セックスは 無関係なものになる

突然また、あなたは見出だす

夢は もうそこにはない、情欲は止まった、嵐は消えたということを------

そして、静寂、完全な静寂がある

あなたのエネルギーは その欲望に巻き込まれていたが、その欲望は 消え去った

そのエネルギーは どこへ行くのだろう?


あなたはまだエネルギーを 生み出している
食べ、呼吸し、運動し、生活することによってだ
あなたは 神性なエネルギーを 人間のエネルギーに転化しつづける
このエネルギーは どこへ行くのだろう?

古い道は もう閉じている
それは性欲の方向には 進めない
それは どこへ動くのだろう?

仏陀は そのための別の言葉をもっている
彼は それをカルーナ、慈愛と呼ぶ


情熱は もう重要ではない
エネルギーが そこにある
大いなるエネルギーがそこにある

それはどこか 動くところを必要としている
エネルギーは 静的ではありえないからだ
その本性そのものが ダイナミックだからだ

それは慈愛となって あなたから溢れ出はじめる
それが ボーディサットヴァという状態だ

セックスが消え、欲望が消え、未来が 消えるとき
あなたが突然 いまここ にいて
内に その大きなエネルギーを持ち、それを内包できなくなるとき
それは 流れ出はじめる
それはあなたのカップから 溢れ流れはじめる
それが 慈愛だ


これが ボーディサットヴァという状態だ
それは も の ではない

人々は 不自然になってしまっているから それは ふつうには起こらない

だから、世界中の言語に
老人が 性に興味をもつと 何か不潔なことに思われて
「不潔な老人」という言葉がある
なぜ不潔なのか?
若者は 不潔とは 思われていないのに、なぜ老人は?

この言い回しは、時代を遡って それが起こることがなかった昔から来ている
それは 病的な事態だった
それはノーマルではなく、アブノーマルだった
何かが まちがってしまった

さもなければ、死ぬ前に その欲望は消えるはずだ
さもなければ、あなたは人生で いったい何をしてきたのだろう
もし欲望が消える地点にさえ 達していない としたら------?
あなたは 生という機会を のがしてしまった



そして憶えておきなさい
私は 欲望に反対しているのではない

私は まったくそれに賛成だ
時期が来たら そのなかに入るがいい
それも全面的に 入るがいい

そうすれば、そこから出てくる時が来たときにも
あなたは 全面的に 出てくることができる

全面的(トータル)に そのなかへ入る者だけが 全面的(トータル)に そこから外へ出ることができる

なまぬるく、中途半端に、部分的に、抑圧的に進む者は

けっして その しがらみから出てくることはできない

けっして その 愚かさを見ることはできない

けっして その 幻想性を見ることはできない


だから私は 欲望に反対していない
私は 全面的に情熱に賛成だ

そのなかへ 入ってゆきなさい
全面的に、ハートを込めて 入ってゆきなさい

それが時期であるあいだに、見ることのできるものは 何でも見ることだ
まさに その見ることが あなたを それ から解放する

そしてある日 その果実は熟して 落ちる
熟した果実が落ちるとき、樹は重荷をおろす
そのように重荷をおろしたとき、あなたは何をするだろう?

エネルギーは まだそこにある、いままで以上にある
それは、以前は多くのことに関わっていたが、いまやまったく巻き込まれていないからだ

くつろいでいる・・・・・・
あなたは エネルギーの貯水池になる
このエネルギーは あなたから溢れはじめる

ただ 訳もなく------


…03に つづく

(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者 1985) pp.324-329
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「ボーディサットヴァフッド」Q & A (01)

『BODHISATTVAHOOD』
 最初の質問
「ボーディサットヴァについての この話は何ごとですか?
私は そのひと言だって信じません。
そのようなものは いっさいありません。」



そう、ソメンドラ、それは まったくナンセンスだ

しかしあなたは ナンセンス nonsense という言葉を理解しなければならない

それは センス (意味、感覚)を 超えている
あなたは それを信じる必要はない
あなたは それを信じることはできない
あなたは ただそれを体験することしかできない


それは ノン - センス non-sense な 体験だ
しかし、それは真実だ、まったく真実だ
それは起こる
それが 起こるまでは、それを信じるすべはない
そして その必要もない

仏陀は どんな種類の信念にも賛成しない
彼が言うことは何であれ、それは体験だ
それは実存的だ
それは マインドを超えた 何かだ


ふつう私たちは、ナンセンスという言葉を マインド以下のものという意味に使う

だが マインドを超えた何かもある------それもまたナンセンスだ
マインドは それからどんな意味も 創り出すことができない
マインドが消えないかぎり、あなたはこの ボーディの存在が 何であるかわからない
それは も の ではない、たしかに------
それは 体験することだ


あなたは 欲望を知っている
あなたは 情熱を知っている
あなたは 性を知っている
あなたは 愛を知っている

まだ性欲が形成されていない子供に それを説明するがいい

そうすればその子は それはまったくナンセンスだと言う

四歳の子に ちょっとそれを説明してみなさい

------あなたが恋に落ちたということを------

そうすると その子はあなたを不審な目で見つめる
「いったい何のこと? その恋とかいうものは何なの?」


あなたの ロマンスのすべて
あなたの 詩情のすべて
あなたの 胸(ハート)の中で 打ち震えているものすべてを、子供に伝えることはできない

彼は まだその体験を味わっていない
彼は それを自覚していない
欲望は 彼のなかに湧き上がっていない

仏陀はその欲望を ワサナと呼ぶ
そのワサナは まだ彼のなかに 生じていない
それが生じないかぎり、それについて何かを伝えるすべはない


欲望、性、愛のなかに含まれる その同じワサナ、その同じエネルギーが
ある日、欲望から解放される
ある日、欲望が落ちる

ちょうど ある日それが 湧き上がったように、ある日 それは落ちる

生まれるものは何であれ 死に、始まるものは何であれ終わる

生が ごくごく自然に、自然発生的に行ったら、一線が画されうるような段階がくる


…02に つづく

(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者) pp.319-324
 
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OSHO「ダイヤモンド・スートラ」第四章 FROM THE BEYOND〈彼方〉から / 七番目の質問

 第七の質問 
「あなたは、私たち みんなにボーディサットヴァになってほしいと言います。
ということは、ほかの人たちが『彼岸』へ行くのを助けよう という確固たる決意をしなければならない、ということですね。
だが、わたしにはそういう決意ができるとは感じられません。
ときには他者への愛を感じることもありますが、ときには自分のことだけで忙しいこともあります。
そこで、私は待つべきでしょうか。
その決意は『宣言』のようなものではなく、むしろひとりでに熟する果実のようなものなのでしょうか。
そしてまた、なぜ仏陀はブッダであってボーディサットヴァではないのでしょうか?」


まず、これら三つのことが 理解されなければならない
ひとつは、人間の マインドの通常の状態------
あなたがこの世、此岸(しがん)に しがみついていて、彼岸(ひがん)は 架空のものにみえる状態だ

あなたは 彼岸を信じることができない
あなたが あまりに此岸に しがみついているので
唯一の問題は、どうやって あなたが執着を解くのを 助けたらいいか ということだ

サンデハ
いまは ボーディサットヴァであることを 考えはじめても役に立たない
それは 助けにならないし、危険だ
それは 此岸にしがみつく策略になるだけだ
あなたはまだ此岸から 自由になっていない

だからこれは、またこの世界への 新しい執着の仕方になる
それは 実に巧妙だ
いまやそれは 宗教、慈悲、人々への愛、奉仕という美名のもとに在るようになる

それは 偉大な観念となる
「私は人々を救うために ここにいる
私が彼岸へ行かないのは そのためなのだ」

そしてあなたは 彼岸へ行きたがらない

あなたは 彼岸が あることを知らないし、彼岸がある ということさえ信じない
いまやあなたは きわめて微妙で巧妙な 罠のなかに落ち入っている

これが ふつうのマインドの第一段階だ
この段階のマインドは 世界に執着する

そして ますます執着するための 新たな口実を さがしつづける
その執着を解くのは 非常にむつかしい


二番目の段階は ボーディサットヴァの段階------
彼岸に翔ぶ用意が できている者、もう この世界には どんな根もない者の段階だ

そういう無執着の境地に達した者の段階だ

第一段階では 執着を解くことがむつかしい
第二段階では 執着することがむつかしい


『ダイヤモンド・スートラ』は 第二段階の人達のためにある
第一段階の人達のためのものではない

まずあなたは 執着を解かなければならない
この世界のなかにある 自分の根を ことごとく破壊しなければならない
自分の根を ことごとく破壊したとき、はじめてあなたは 他者を助けることができる

さもなければ あなたは なんの役にも立たない

あなたは 何も分かち合うものを もたない

「私は人々を 愛している」と 信じつづけることはできるが、あなたにまだ愛はない
依然として あなたは 人々が 自分を愛してくれることを望んでいる

依然としてあなたは乞食のままだ

まだ理由なく 分かち合う喜びだけのために 愛を分かち合う状態には至っていない


まず 第二の段階まで行きなさい
まず あなた自身を 完全に自我(エゴ)のない状態にしなさい

この世界のなかにおろした あなたの根をみんな破壊しなさい
欲ばりにならないことだ

そのときはじめて、仏陀の言っていることが あなたにふさわしいものになる


それから次の問題が もち上がる

はじめの問題は どうやって執着を解くか ということだ
次の問題は どうやって もう少し執着するかということだ

仏陀は、あなたにどんな根もなくなったとき あなたはここで必要とされる、と言う

そのときには、あなたは 分かち合う何かを持つ

そのときには、あなたは 分かち合うダイヤモンドを持つ

そのときには、立ち去る前に 分かち合いなさい

そして できるだけ長く ここにとどまりなさい

これが 第二段階だ
第三段階は、すでに彼岸に到達したブッダの段階だ


さて、あなたは こう訊ねている
「それではなぜ仏陀はブッダであって ボーディサットヴァではないのですか?」

第三段階は さらにむつかしい
彼岸にいながら、なおかつ此岸にもいる ということは最もむつかしいことだ
彼岸にいながら、なおかつ人々を 助けつづける ということは最もむつかしいことだ


だから、これらが その三つの難問だ
第一に、此岸に対して 無執着になること
第二に、その無執着が起こったとき 此岸にとどまること
第三に、此岸に とどまることが できなくなったとき・・・・・・
・・・なぜなら此岸にとどまることが 不可能になる瞬間がきているからだ


あらゆるボーディサットヴァは ブッダにならなければならない
あなたは 此岸に しがみつくことはできない
それは 違法だ
あなたが 立ち去らなければならない時点が来る
少しのあいだくらいなら 執着することは可能だ
せいぜい 一生のあいだくらいならね

が、それ以上は 不可能だ
そうなったら、あなたは 立ち去らなければならない
一生ぐらいなら 執着できる

すべての 根は断ち切られているが
あなたには 肉体があるから、その肉体のなかに とどまることができる

だからせいぜい 一生ぐらいなら執着できる

それからあなたは 立ち去らなければならない


そして、第三の段階、ブッダの段階が来る
ブッダとは すでに立ち去っていて、それでもなお人々を 助けつづける人のことだ

だが憶えておきなさい
ボーディサットヴァであって はじめて人々を助ける第三段階に 入ることができる
さもなければ 第三段階には入れない


理解されるべき言葉が 二つある

ひとつは アルハット(阿羅漢)、いまひとつは ボーディサットヴァ(菩薩) だ

アルハットとは・・・・・・

実は その二つは 同じ境地なのだが------
彼においては世界は断ち切られ、もはや愛着はなく、自我(エゴ)は 消えている

だが、彼は ただちに彼岸へ行く

彼は アルハットと呼ばれる

彼は 他者のことは気にかけない

彼は 用意ができたら、単純に彼岸へ行く


アルハットは 彼岸から救いの手を差しのべることはできない
なぜなら彼は 助け方を知らず、これまで 一度も助ける訓練をしたことがないからだ

ボーディサットヴァも アルハットと同じ境地にいる

彼は 知った、彼は見た
彼は 真理になった

だが彼は もう少し此岸にとどまる
そして あらんかぎりの手段を尽くして 人々を助けつづける
彼は その助ける道を学んでいる


もしあなたが ボーディサットヴァになって それから彼岸へ行ったら
彼岸では アルハットもブッダになり、ボーディサットヴァもブッダになる
彼岸とは ブッダフッドの 岸辺だからだ

だが、此岸でボーディサットヴァだった者は、彼岸からも助けることができる


彼は さまざまな道や手段を見つけ出す

仏陀は 何世紀にもわたって 助けつづけている

いまでも、あなたが 仏陀に心をひらけば、その助けはあなたにやって来る
いまでも、情熱をこめて 仏陀を愛すれば、その助けはあなたにやって来る

彼は いまなお彼岸から呼んでいる

だが その彼岸からの呼びかけはあまりにも遠い
あなたはきわめて注意深く 耳を傾けなければならない
私に耳を傾けるよりはるかに 注意深くあらねばならない
なぜなら その声は「彼の岸辺」から やってくるからだ


遅かれ早かれ、私も行く
もし私に 注意深く耳を傾けるすべを学んだら
あなた方の多くは 彼岸にいる私を聴くことができる


ブッダは 意識の究極の状態だ
ボーディサットヴァを通過したら、あなたはこの世に対して ひらいていられる
あなたは永遠に 神への窓になる

もし ボーディサットヴァを 通過しなかったら

あなたは〈無限〉のなかに消えはするが、あなたに助けられる人は 誰ひとりいない


(the diamond sutra 1976.スワミ・アナンド・ヴィラーゴ訳者1985) pp.236-244